「それなら、さっきの歌を忘れる事。それでチャラにしようよ」


 あまりに理不尽。自分に有利過ぎる取引に罪悪感にも似た感情を抱く海斗だが、目の前で満面の笑顔を浮かべる陽子がこれ以上折れそうにない事は、出会ってこれまでの短いやり取りでも十分に理解したため、海斗は仕方なくその案で手を打つことにした。


 何のことかといえば海斗の詫びの件である。

 改めて深く頭を下げる海斗に、陽子は下から無理やり頭を持ち上げると「困っている人がいれば助けるのは当たり前。恩に着る必要なんかない」とキッパリ礼を断るのだ。海斗は海斗で命を救ってもらったのに礼の一つもしないのは失礼だからと食い下がろうとし、ならばと出した陽子の案が先程のもの。代案にもなっていない代案。笑みを浮かべながらも一歩も引きそうにない陽子に、海斗が折れる形でその要求を呑むことになったという流れ。

 うんうん、と笑顔で満足そうな陽子の顔を見ていると、礼自体は言えたことだから、まぁこれで良かったのではないか。という気になってくる海斗である。


 満足気な陽子は、先ほどまで海斗が座っていた岩に飛び跳ねるように座ると、自分の横をぺしぺしと叩いて海斗に座るように促す。その仕草に応え、少し隙間を空けて並んで座る海斗と陽子の上には、自己主張の激しい太陽がこれでもか・・・・・というほどの熱い視線を投げかけていた。普段着の海斗には堪える暑さだが、先ほどまで泳いでいた陽子には冷えた身体を温めるちょうど良い日差しのようで、実に心地よさそうにその表情を蕩けさせている。海斗はその表情に視線を奪われ―― と言うよりも、年頃の海斗にとっては、恐らくは年上だろうが近い年齢に見える陽子の水着姿、特に肌の露出の多いツーピース水着は目のやり場に困るも。油断して鼠径部に描かれている花柄に目を奪われでもしようものなら、再びあらぬ疑いを掛けられかねない。ゆえに、陽子の方を見れば必然的にその視線は陽子の顔をじっと見つめることになっている。というのが本当なのだが、そんな海斗の視線を気にしてなのか、少し照れたように、視線を外す感じで上目遣いに海斗を見つめる陽子は「それで」と新たな話題を切り出した。


「海斗は…… 泳げないの?」


 実に明け透けに、恣意的で無遠慮な言葉だが、その言葉は不思議と海斗に不快感を与えるものではないように聞こえる。そして、そんな言葉に海斗は思う。果たして自分は泳げないのだろうか、と。

 そもそも体が万全の状態ならば今までも特に問題なく泳げていた。そして、昨日溺れる原因になったのは、あのタイミングで何故か力の入らなかった自分の右足。リハビリも普通の生活でも動いていたこの右足は、今日、ここに来る手段を考えれば今も問題なく動くのは間違いがないように海斗には思える。

 では、果たして今、海に入っても普通に泳げるのだろうか。

 陽子から視線を外し、見つめた揺れる水面。海斗はそこに抱いた感情のまま陽子に答える。


「…… 右足が少し…… 調子が悪いんだ。泳ぎはちょっと苦手、かな」



「ふ~ん、そっか」


 苦笑しながらそう答えた海斗に陽子は何か腑に落ちたような感じで頷くと、反動をつけて立ち上がり、くるりと半回転、海斗に向かい両手を差し伸べてきた。釣られてその手を取る海斗の身体を器用に立ち上がらせると、少したたらを踏んだ海斗の身体を優しく抱き留める。


「不思議に思ったんだ。キミはバランスよさそうな身体つきしてるから、溺れるようには見えなかったから」


 顔と顔、口唇さえも触れ合いそうな程に迫った陽子との距離に、海斗の心臓は全力疾走を始める。そんな海斗の物理的な胸の内を知ってか知らずか、目の前の陽子は楽し気に笑みを浮かべ、そして海斗のTシャツの裾に手を掛けて一気にたくし上げた。


(えッ、ちょ、ちょっと何この展開!?)


 思考は声にならず、驚いた表情でなすが儘の海斗。そのTシャツをたくし上げる陽子の手が不意に止まる。海斗のTシャツを脱がせるほど陽子の身長が足りないようだった。


「…… 海斗、自分で脱いでくれる?」


 現実についていけず頭の中が真っ白な海斗は、陽子の言葉にただただ従う。陽子が手放したTシャツの裾を掴み、無造作に脱ぎ捨てる。

 そんな普段行う現実的な行動が、海斗の思考を僅かに取り戻させる。とは言え――


(これってアレだよな?! 服脱いだらどうすればいいんだ? 抱きしめれば…… って言うか、そもそのなんでイキナリこんな展開?!)


 そんなザマである。

 はた目から見れば混乱の極み、完全に固まる海斗の背に、Tシャツから離した手を、再び抱きしめる形で添える陽子。一歩二歩、後退るような形で海斗を引っ張っていく。


「大丈夫、海斗。私に任せて。力を抜いて」


 海斗を抱きしめ、見上げながら、実に楽しそうな表情で器用に後退る陽子は、波打ち際まで下がると――


「私が泳ぎを教えてあげるから」


 海斗を抱き締めながら、海へと倒れるように落ちた。


(泳ぎかよッ!!)


 とは海斗も思うまい。思考がピンクに染まっていた中での突然の海への転落。昨日の事柄。海斗の身体に反射的に力が入る。陽子の身体を強く抱き返し、青と白の泡沫の世界へと身体は落ちていく。

 大きな石を落としたような重い音、小気味いい音を立てながら天に昇っていく気泡、海斗を捕らえるかのように辺りを包み音さえも遮断する青、太陽さえも遮られ、弱々しい光を届けるのみ。

 海斗はただ空気を、助かろうと首を水面うえに向けるのだが、何かが身体を捉えて離さない。いったい何が。その原因を確認しようと水面うえへ向けていた首を戻した海斗の目に飛び込んできたのは、優しく微笑む陽子の笑顔だった。

 水中の月か、太陽か。

 控えめに。しかし優しく輝くようなその笑顔に、海斗は思い出す。


 ―― 大丈夫、海斗。私に任せて。力を抜いて。


 藻掻こう、助かろうと力の籠っていた海斗の身体から、ゆっくり力が抜けていく。陽子の言葉を思い出し、陽子に任せ、陽子に命を預けるかのように。

 そして、二人の身体は天に昇るかのように、ゆっくりと水面へと浮かび上がっていった。




「―― ッハァ!」


 空気を、酸素を取り込もうと、海斗は大きく息を吸う。

 昨日程息苦しくも咽せ返ることもなく、少し荒い息を繰り返しながら、海斗は抱き合う陽子の顔を見つめた。


「フフッ、よくできました」


 海斗の背中を撫でながら優しく微笑わらう陽子の顔に、また、海斗の胸が大きく鼓動を刻む。しかし、先程の全力疾走のような鼓動とは違う、大きくゆっくりな、それでいて何か締め付けられるような鼓動。


「キミは――」

「陽子」

「陽子はいつも笑顔なんだね」


 ただ素直にそう思った海斗の言葉に、陽子は大きく頷く。


「お母さんがね、『アナタはみんなを照らす太陽のような人になりなさい』って、そう願って私の名前を陽子・・って付けたんだって教えてくれたの」


 そう言って改めて作る陽子の笑顔は、海斗には何故か少し寂しそうに見えた。



 その後、陽子は海斗の手を引き、抱き留め、時に突き放しながら海斗の海への恐怖心を取り除こうと、あの手この手を尽くした。一日で泳げる。などということはなかったが、「右足が……」と陽子に言った時のような海への恐怖心はなくなっていた。

 波の音が強く聞こえるようになってきたころ、陽子は海斗の手を引き、再び岩場へ。陽は傾き、焼けるようだった暑さもどこかへ消え、海と空は昼間に比べて低く、そして広く感じられた。


「海斗」


 陽子があの岩に座り、海斗を誘う。その仕草に応え、海斗は陽子の隣に腰を下ろした。下がってきた気温のせいか、触れ合う肩が温かかった。


「いっぱい泳いだね」


 太陽が焦がす水平線の空を見つめ満足げな陽子の言葉に、海斗も短く飾りのない、しかし同じような満足感の籠った言葉で答える。


 波音が響いていた。

 優しく包むような沈黙。

 僅かに肩に重みを感じた海斗の名前を陽子が呼ぶ。

 夕焼けからは目を反らしていないのだろう、触れ合う肩も、声の向きも。

 海斗もまた、陽子と同じように夕焼けから視線を外さずその声に応える。


「足、どうしたの?」


 陽子が発したのは、何気ない、しかし今の海斗にとって一番重い言葉。だが、不思議とその言葉は昼間と同じように不快感の感じない音色で海斗の心に沁み込む。

 その言葉に、海斗は迷うことなく自分のこれまでを口にした。海斗にとってそれは陽子に隠すような事ではなかったから。


 サッカーのこと。


 怪我のこと。


 無くした居場所のこと。


 家族のこと。


 不思議と、紡ぐ言葉に心が沈むことはなく、ただ、言ってしまった言葉で陽子に変な同情を抱かれはしないかだけが気がかりだった。


「ふ~ん、そっか……」


 そんな海斗の気がかりも、陽子の言葉は実につれない、そっけない言葉。

 そして、海斗の肩の上には何かが乗るような感触があった。


「でも、良かったね」


 それは誰も、海斗が怪我して今日まで、誰一人として口にしなかった言葉。

 今日、この時、そして陽子が口にしたのでなければ、海斗が怒り、叫び、喚いていたかもしれない言葉。

 夕焼けを見つめる海斗はしかし、怒ることも、叫ぶことも、陽子の顔を覗き込むことすらもせず、その言葉の続きを待つ。優しく語る陽子の言葉を。


「海斗にはさ、大切なものがあるから」


 海斗の一番大切なものは家族であっても、これから別れる両親ではなく、海斗のために泣き、海斗のために走ってくれた姉の春香なのだろう、と。


「そんなお姉さんがいるなら海斗は大丈夫。今は心が休んでいるだけ。きっとまた新しい道を見つけて歩き出せるよ」


 何故か――


 何故か海斗には夕焼けが、海と混じるように歪んで見えた。


 上手く言葉の出ない声で、海斗は何度も陽子の言葉に頷く。


 そして――


「また、明日も…… ここに来ていいかな」


 そんな海斗の言葉に、陽子はそっと海斗の肩に手を回し頷くのだった。

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