意識よりも先に身体が動いた。

 見ず知らずどころか、今初めて遠目に見えただけの誰とも分からない少女のために、何故咄嗟に自分の体が駆け出そうとしたのかは分からない。


(助けないとッ!)


 身体より後に反応した意識が自己の行動の動機付けを行うとほぼ同時に、岩場に踏み出した右足裏から痛みが走る。立っているだけで痛みを感じるような岩場だ。駆けるために強く踏み込めば当然それだけ痛みも強くなる。だが、海斗の心を捉えたのは足裏の痛みではなかった。


(膝―― 力、入らない?!)


 完治したはずだった。

 リハビリでは歩けた、走れた、ボールを蹴ることもできた。

 自分にとって一番の相棒であり、かつての夢の残骸。完治したはずのその膝は、踏み出す海斗の意志とは裏腹に力が籠ることなく、彼の身体を支えることもなかった。

 そしてぐらりと傾く海斗の視界。

 咄嗟に見たのは倒れ込む海面の方ではなく、岩場から落ちようとする少女の姿。

 それは―― 空中で華麗に体を回転させ、まるで海面へ矢のように落ちていく姿。


(―― ッただの飛び込みかよっ!)


 思わず声に出さずにツッコミを入れながら、海斗は岩場から海へと、激しい水飛沫を上げながら落ちた。


 海斗自身、泳ぎは苦手ではなかった。と言うよりも、サッカーでプロも確実と目されていた人間などは運動神経の塊である。得手不得手に関わらずスポーツ全般などはその身体能力で無理やり何とでもできる。

 ただしそれは五体万全の状態での話。


(右足が動かない?!)


 もともと海斗はサッカーだけしかしてこなかった。水泳などは学校の授業で適当に泳いでいたのみ。突然海に落ちた時、右足が動かない時、どうやって泳げばいいのかなどは勿論知らない。ただ取り合えず浮き上がろうと藻掻くが、バタつく左足は水を掴む感覚もなく、必死に掻く両腕は身体を押し上げることなく水面は遥か遠くに――


(―― 溺れてる!?)


 認識した。

 自分の置かれている状況を認識した。

 そしてその認識は海斗をパニックへと陥らせる。


 とにかく海面へ、少しでも上へ。


 必死に藻掻く。


 必死に藻掻く。


 腕を、左足を、掻いて、蹴って、少しでも上へ。少しでも海面へ。


 しかし身体は上がらない。思ったように浮かび上がらない。

 遠く見える水面に手を伸ばす海斗の心に、まるで走馬灯のように様々な光景が浮かぶ。


 サッカーをする仲間たち。

 綺麗に手入れされたピッチを見下ろす観客たち。

 そして、ささやかながら小さな食卓を笑顔で囲む両親と姉。

 そんな光景が、まるで海斗を拒むかのようにどんどん遠ざかっていく。


 悲しかった。

 苦しかった。

 空気を失い潰される胸よりも、遠ざかる未来を見せられる心の方が苦しかった。

 そして――


(俺の生きる意味って――)


 抱いた思いは海斗の身体から力を奪っていく。

 足掻いていた手足は徐々に力を失い、身体はゆっくりと深く水の底へ――








「―――― ガハッ!」


 そこには空気があった。

 そこには酸素があった。

 身体は無意識に酸素を取り込もうと無理な呼吸を繰り返す。

 気管に残った水にも構わず大きく息を吸い込み、咽び、息を吸うために大きく開けた口に波が入り、咽ぶ。


(生きて…… るっ!)


 荒く息をつきながら、何度も咽込みながらも海斗は実感する。自分がまだ生きていることを。そして、いつの間には海面から顔を突き出していることを。


「諦めたらダメだよキミ。諦めたらそこで試合終了だ」


 突然降って湧いたように、誰かの声が耳に届いた。

 咽込み、周囲の音も状況も認識してすらいない海斗の耳に、やけにハッキリと届いたその声は、どことなく冗談を言っているような少女の声だった。

 その声に引かれるかのように、周囲の状況が見えてくる。

 見上げる空、降り注ぐ太陽、そして、まるで牽引されるように仰向けのままで進んでいく自分の身体。


(助けられた?)


 溺れたせいだろうか身体に力も入らず、ただ任せるままに引っ張られていく海斗は、声の主に助けられたのだろうかと思い至る。

 やがて「よっ」という小さな掛け声とともに、海斗の身体は器用に比較的平らな岩場の上へ持ち上げられた。さすがに男子を岩場へ無傷で持ち上げるのは難しかったようで、海斗は背中を何か所か擦りむいた。しかしそんな痛みよりも、硬い岩場に感じる安定感に海斗は大きく深呼吸、ようやく人心地ついた。そんな海斗の顔を影が覆う。そこには先程の声の主だろう、「大丈夫、キミ?」と少し心配そうな表情で覗き込む少女の顔があった。


 くりっと愛嬌を感じさせる大きな目、健康的な褐色の肌と水に濡れ艶やかに光る長い黒髪。

 それは先ほど見かけた岸壁から飛び込みをしていた少女。遠目から見ただけだったが、海斗には何故か間違いないと言い切れる自信があった。溺れる直前に脳に刷り込まれた映像のためなのだろうか。


 そして海斗は、自分を覗き込む澄んだ瞳に言葉を奪われる。美しいだとか綺麗だとか、そんな陳腐な感情は浮かんでこない。その瞳から目を反らすこともできず、反らそうとも思わず、ただただ、その瞳に釘付けになった。


「?」


 少女は首を傾げた。

 滴る水と共に、濡れた髪の束が揺れる。


「えーっと、ほんと大丈夫?」


 海斗は慌てた。

 まさか「キミに見とれていた」などと初対面で言えるようなキャラはしていない。 誤魔化すように首を大きく縦に「大丈夫」と答える海斗に少女は小さな花の蕾がほころぶかのような笑顔で「良かった」と微笑む。


(―― ッ!!)


 心臓が飛び跳ねたような気がした。


 思わず胸に手を当てた海斗は、自分の胸元を確認する。

 見た目はいつもの自分の胸板。しかし間違いなく鼓動が早くなっている。


(緊張?)


 海斗が今までの人生での経験から似たような感覚を思い出せば、思い当たるのは大きな試合前の緊張感。期待、喜び、そして少しの不安。むず痒いようなこの胸の感覚はそれに近いものがある。しかし……


(一体何に緊張してるんだ、俺は?)


 考えられる緊張感の元。少女の顔を、柔らかな春の日差しのような笑顔をもう一度見ようと視線を戻した海斗の視界に、少女の顔は映らなかった。

 慌てて身体を起こし視線を巡らせる。海斗は、いつの間離れたのだろうか、少し離れた位置にいる少女を見つけた。


「この辺りは危ないから、砂浜の方で泳ぐといいよ」


 砂浜の方を差しながら少女はそう言うと、ひらひらと海斗に手を振り「もう海に落ちちゃダメだよ」と優しく窘めるように。そして踵を返して岩場の方へ一歩二歩、たんっと軽やかに海へと飛び込み、人魚も斯くやという勢いでどこかへ泳ぎ去ってしまった。


「……」


 未だ声を出すことを忘れていた海斗は、その姿を見送りながら思い出す。


「お礼…… 言うの忘れてる」


 海の方へと目を凝らしてみたが、もちろん少女の姿が見えるはずもなく海斗の視線は宛もなく彷徨うだけだった。



 その後、名残惜しい気持ちを引き摺りながらも浜辺に戻った海斗を出迎えたのは、パラソルの下で大の字で寝る姉の姿。思わず苦笑するも、そんな姉の横に座り、海を眺めながら海斗は少女の事を思い出す。


 あの岩場に行けばまた会える。

 何故かそんな根拠のない確信が海斗にはあった。


(…… 明日、また来よう)


 そう思いながら、海斗は姉が目覚めるまで海を眺めるのだった。

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