一頻り泣いた春香は、抱き合う身体を離し、未だ晴れない表情で泣き腫らした目のまま家から連れ出した理由を海斗に語った。それは春香の弟に対する愛情。夢破れて失意の底に沈んでいる海斗が、家族の諍いに巻き込まれる事を恐れての行動だった。

 そんな春香の顔を海斗は見つめる。

 かつてはとても大きく見えた年の離れた姉は、今ではこうして自分が見下ろすようになっている。しかし、それでも今でもこうして海斗を守ろうとしてくれているその想いは、何よりも力強く大きく見える。

 そんな春香に対して告げようとする言葉は、ただただ素直な海斗の想いは、今度は何の障害もなく海斗の口から紡がれた。


「姉ちゃんは…… 親がどうなっても、姉ちゃんはいつまでも俺の家族だから」


 驚いたような顔。

 沈黙。

 そして……


「………… アンタ、またあたしを泣かせるつもり?」


 そう言って春香は自分の頬を伝う涙を拭うと、その手を握り、拳で海斗の胸をこつんと突く。その顔には、どこか照れたような嬉しそうな笑顔が浮かんでいた。

 そして――


「あたしは飲み物買って来るから、アンタは先に車で待ってな」


 そう言っていつもの姉らしい笑顔で笑い駆け出した春香は、ふと何かを思い出したように立ち止まった。くるりと回れ右。海斗の方へと身体を向け、ばつが悪そうな照れ笑いの表情を浮かべると、車のキーを投げて寄越し再び施設へ向かって走り去っていった。




 それからの祖母の家へ向かう車中は、なんとなしに形容しがたい微妙な、しかし決して居心地の悪くない雰囲気だった。漂っていた苛立ちや何処となしに重苦しい雰囲気はなくなったものの、先ほどの件のせいだろう気恥ずかしそうな感じを匂わせている春香と、何年振りかに姉の泣いた顔を見て、その件をどう扱っていいのか悩む海斗の沈黙が破られることなく、山間の高速道路を車は進んでいく。やがて高速道路を降り県道が山の切れ間に差し掛かると、車の斜め前方にはどこまでも広がる海が見事な光景を展開していた。波のうねりに日差しを受けて、さながら光の絨毯のように煌めく水面みなもに、二人はそれまでの沈黙も忘れて歓声を上げていた。


「海斗! 明日は海行こ!」


 いつの間にか軽快なポップスがビートを刻む車内で、楽しそうに笑いかける姉に応え、海斗もまた嬉しそうに頷くのだった。






「春香、海斗、よぉなんしたなぁ。思ったよりも元気そうだがいや」


 日暮れ前、萎びた木造家屋が立ち並ぶ住宅街の一角に建つその家に到着した海斗たちを、祖母は実に嬉しそうな笑顔で迎えてくれた。

 この地方独特なイントネーションで二人―― 特に海斗のことを心配してくれる祖母の優しさは、行く道中の姉のものと同じように海斗の心に深く染みわたる。


「一週間ほど泊っていきんさい」


 母方であるため母と連絡を取っていた祖母は、夫婦間の話し合いをつけるという母の言葉を二人に告げ、そのリミットとして一週間の時間を二人に告げた。


 かつて商売をしていた祖母の家は普通の一軒家よりもやや広く、木造建築の古民家の醸し出す、良い意味で古めかしい雰囲気が海斗にはとても新鮮だった。仏壇に立てられた線香の香りの漂う薄暗い居間も、隙間風の吹き込むタイル張りの寒い浴室も、何故か離れにある引き戸のトイレも、すべてが物珍しい。商売をしていたせいか、間取りは非常に独特であり、さらに敷地面積のわりに部屋数が極端に少ない。逆に言えば一部屋が非常に大きくできていた。そんな家に御年八十五歳の祖母は未だに一人暮らし。近くに住む叔父夫婦がたまに様子を伺いに来るらしいが、特に不自由するわけでもなく悠々自適に生活をしているらしい。もちろん家事は自らこなし、炊事が完璧なのは言うまでもない。


 先に風呂に入らせてもらい、今で旧式のレトロなテレビでバラエティーを見ながらくつろいでいた海斗の耳に、風呂上がりの姉の呻き声が聞こえた。


「うっ! な、なにコレ」


 それは祖母の用意した食卓に並ぶ夕食の光景。

 並ぶは茶色、茶色、茶色。

 沈む海斗を励まそうとしてなのだろうか、男子の好きそうなカツ、エビフライ、イカリング等々揚げ物のオンパレード。油分、脂肪分を人類の敵と見做している春香にとっては悪夢のような食卓である。一方、世の男子の例に漏れず揚げ物大好物の海斗は嬉しそうに声を上げ祖母に礼を言う。だが海斗も、そして春香も忘れていたことがある。この中で誰が一番揚げ物が好きなのかを。いざ食事が始まれば誰が一番カツに手を伸ばすのかを。そして始まる祖母と孫の仁義なき戦い。その一方、あまり食べるものの少ない食卓から興味をテレビへと移した春香は、味噌汁を啜りながらニュースへと番組が移っていたテレビを眺める。


『次のニュースです。南アフリカのジルディゴで内紛により国王が――』

「我が家も人様の事言えないけど、外国も大変だねぇ」


 何の正義の為、何を守るためなのか、そんな遠い国の身内の諍いを告げる物騒なニュースを我が事に充て呟く春香の言葉は、激しい攻防を繰り広げる祖母と弟の二耳には届く様子もなかった。



 


 田舎の夜は早い。

 特に出歩くつもりもない二人は、普段の生活サイクルから早々に寝具を取り出す祖母に合わせるように床に就いた。布団に入り静かにすると、趣のある―― 悪く言えば古めかしい家屋は夜風に寂しげな唸り声をあげるため「怖いなら姉ちゃんが一緒に寝たげようか」などと海斗を揶揄からかうように春香は言っていたが、丁重にお断りした海斗に「薄情者」と罵声を飛ばすあたり、結局春香自身が怖かったのだろう。しかし、しばらく見慣れぬ天井を見上げるうちに、旅の疲れか精神的疲れか、色々あった一日に何を思うでもなく海斗も春香もあっという間に眠りに落ちていくのだった。






 滞在二日目。空は見事な快晴。前日話したように、二人は車で海へと向かう。昨日夕、祖母の家へ到着する前に量販店で買い込んだ海用装備一式を抱えて。

 祖母に教えてもらった穴場の遊泳場は波もさほど高くなく、砂浜に人も疎らで二人にとっては絶好のロケーションだった。目的地に到着した二人は、既に服の下に水着を着こんできていたため、無造作に服を車に脱ぎ捨て、砂浜の一角にパラソルを突き刺し陣地を構築すると、準備運動もせず波へ向かって駆け出し――


「ふぎゃ?! ―― ッ足、足つった・・・!」


 春香が5秒で脱落した。


「っちょ、海斗っ、何笑って―― って痛たたた」


 大笑いする弟に恨みがましい目を向ける春香は、何だかんだ言いながらその肩を借りて陣地に生還すると、仕方ないとばかりに用意周到に準備していたクーラーボックスからノンアルコールビールの缶を取り出し、景気よくプルタブを起こす。


「姉ちゃんは今から宴会の時間だから、お子ちゃまのアンタは一人で遊んできなさい」


 いけしゃあしゃあ・・・・・・・・と、如何にも最初からその予定だったと云わんばかりの言いぐさ。そんな姉に苦笑する海斗に、春香は適当に遊んだら帰ってくるように言う。適当に応える海斗に、春香は何故か「待ってるから」と真剣な顔で念押しするが、その言外に込められた意味を理解できていない海斗は、ぴらぴらと手を振りながら姉に背を向けて砂浜を歩いて行った。


 海斗は海岸線を一人歩く。足元の砂は水に濡れておらず不安定で歩きにくいが、海斗の鍛えられた体幹はこういった場面で無駄に力を発揮するとともに、その鍛えた所以であるサッカーのことを思い起こさせ暗い気持ちにさせる。

 姉との時間は楽しいが、これから自分はどうしていけばいいのだろうか。

 一人で歩くうちに、だんだんとそんな気持ちが、未来への不安が心を支配していく。そんな心に触発されてか、晴れ渡り、どこまでも続く海と空の青も次第に色を失っていくように思える。

 徐々に重くなっていく足、体、心。座り込んでしまいたい。そんな気持ちに襲われた海斗がふと気が付くと、足元は砂地ではなく岩場になっていた。

 気が付けば裸足の足裏に痛みが走る。裂傷を負ったわけではないが、尖った岩場が足裏に突き刺さり鋭い痛みが海斗の意識を暗い底から一気に引き戻した。そして同時に広がる視界の端。なぜか目に留まった200m程離れた岸壁の上。そこに立つ水着姿の少女の目に入った。

 その少女は次の瞬間、身体をぐらりと傾け岸壁の上から――

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