⑨
プールの底から見上げた水面は、あの日と同じ煌めきを湛えていた。
揺らめきながらも燦然と、あたかも天から純白の輝く羽が舞い落ち天使が降臨してくるかのような、そんな美しく荘厳な光景。そう感じるのは海斗の感傷のせいなのかもしれない。しかし、見上げるこの光景は、あの日からまるで福音の如く、海斗に勇気と力を与えてくれるものとなっている。
水の中、そっと口唇に触れる。
あの日以来、誰かと恋に落ち愛を交わさなかったわけではない。けれども、海斗は今でもあの日の感触を、想いを鮮明に思い出すことができた。
(陽子……)
そっと目を閉じ、その名を、その姿を思い出す。
その姿を心に刷り込むようにぐっと力を籠めると、たとえどんな事だろうとも成し遂げれられる気がしてくる。
それはこれまでも、そしてこれからもきっと変わらないだろう。
これは海斗にとってひとつの儀式。
勝負に赴く時のための、勇気を奮い起こす時のための、大事な、大切な儀式。
そして勇気を得たならば、後はただ前に進むのみ。
海斗は口から小さく空気を吐き出すと、眼を開き煌めく光の中へ浮上していった。
「先輩ッ早く上がってきてくださいよ。急いで準備して出発しないと間に合いませんよ」
水面に浮かび上がった海斗に、いつの間にプールサイドへやってきたのだろうか、後輩が待ちかねたように非難の声を上げていた。心なしか…… いや、間違いなく焦っている表情。急かすのは飛行機の搭乗時間のせいだろう。
海斗が壁に掛かっている時計にチラリと目を遣ると―― どうやら潜水の自己記録を更新していたようだ。
「もー、なんで先輩はいっつもそうやってプールに沈もうとするんですかー」
可愛らしい小動物系。そんな形容がぴったりな後輩の文句をBGMに、海斗はプールから上がり今後の予定を考える。
いよいよ種子島宇宙センターからの出発の日が三日後に迫っている。
目的地は火星。冗談ではなく本気で天体の火星である。
あの日思い浮かべた「宇宙」の二文字は、様々な要因が重なって海斗の現実となった。
エリート中のエリート、宇宙飛行士。
その席に手が届いたわけではない。だが、新たに見つかった金属と、その合金によるロケットの性能の向上。火星移住を現実のものとしたい各国の思惑。海斗の学者としての一定の実績と知識、そして身体能力。さらに言えば、身体に大きな治療を施した人間の宇宙空間の適応の試験等々、本当に様々な要因が重なった末、今回の火星調査への随行団の一員に海斗は選ばれた。
今後の世界へ、多大な影響を及ぼす今回の調査。
海斗の名前は小さくだが、確実に世界に届いている。
(果たして陽子は自分の名前に気付いているかな)
こんな大プロジェクトにあたって思い出すのが家族でもなく、もう十年以上前、わずか数日だけ偶然の出会いを果たした少女だということを知れば、同僚たちはいったい何と思うのだろうか。
思わず苦笑する海斗の背には、焦る後輩の甲高い声が尚も飛んでいた。
そして海斗は振り返る。
プールサイドから水面を見下ろし、そこに揺蕩う太陽の光へ告げる。
「行ってくるよ、陽子」
海斗の声に応えるかのように、水面は揺らぎ、きらりとその光を瞬かせた。
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