②
「ちょっと、姉ちゃん!」
突然の姉の暴挙に流石に抗議の声をあげる海斗。しかし、春香はそんな海斗の抗議に応えることなく、ただ不機嫌そうに前を向いて車の運転をしている。しばらくあれこれと問いただす海斗だったが、暖簾に腕押し、糠に釘。まるで反応のない姉の様子に無駄を悟ったのか、やがて口を噤み、流れる窓の外の景色を何を思うでもなく見つめるのだった。
車は一時間くらい走っただろうか。高速道路に乗り走行が安定してきたのか、それとも気持ちに余裕が出てきたのか、春香はぽつりと「婆ちゃんの家に行くから」と目的地を告げた。
「いやいや、姉ちゃん。婆ちゃん家までここから何キロあるんだよ」
「…… あと3時間も走れば着くよ」
山陰地方の片田舎。余りに遠方の目的地に思わず呆れる海斗に、春香は平然としたものだ。そもそも時計が示す今の時刻、日帰りで帰れるものでもない。荷物もなければ着替えも何もない。だいたい……
「姉ちゃん学校はどうすんだよ」
「いいんだよ、大学なんて」
取り付く島もない。
「彼氏は――」
「ッ!! うるせぇ! あんなバカ知るかっ!」
考えなしに思いついたことを口にするものではない。踏み抜いたそれは見事な地雷だったようだ。もの凄い顔で睨まれた海斗は、何か申し訳ない気持ちを感じながらも他に会話の切っ掛けがないため、恐る恐る言葉を続けた。
「…… 痴話、喧嘩?」
また烈火の如く怒られるのではないか、そう思いながら伺った姉の横顔は、しかし予想と違い特に何の変化も見られなかった。
「アイツとのことは関係ないよ。アレとはアンタが入院してる間に終わったから」
ならば何で突然こんな無理やり自分を連れだすような形で家を飛び出したのだろうか。他に姉が感情に任せて家を飛び出すような理由に思い至らず、首を捻る海斗に、春香はその横顔を歪ませ苦しそうに口を開いた。
「最近さ、父さんと母さんが仲が悪いんだ…… よくケンカしてる」
「…… 喧嘩?」
絞り出すような春香の言葉は、海斗にとって予想外のものだった。
海斗は両親が家で夫婦喧嘩なんてしているところは今まで一度も見たことがなかった。我が家の両親の夫婦仲は非常に良いものと、何の疑いもなく思っていたくらいだし、実際今まではそうであったのだろう。しかし、仮に両親の仲が最近悪くなっているからといって、果たしてそれが春香が自分を引っ張り出した理由となり得るのだろうか。考える海斗に応えは出ない。そしてそんな海斗の疑問に答えるように、春香は言葉を続ける。
「そのケンカに私も横から口出したの。気付いたらアンタを引っ張り出して車に乗ってたよ」
(いや、気付いたらって。それじゃよく分からないよ)
そもそもなぜ春香が両親の喧嘩に口を出すのか。それになぜ自分が春香に引っ張り出されなければならないのか。肝心な途中の経過がないために海斗には状況がさっぱり理解出来ないのだが、春香はそれ以上海斗に何かを言うつもりもないらしく、その会話はそれ以上一向に進展することはなかった。
重暗い雰囲気のまま車は走る。いくつかのサービスエリアの表示看板を過ぎ、またしばらくして次のサービスエリアの表示が出たころ、春香は小さく息を吐き何かを決心したような雰囲気。それを横目に、先程の話の続きをしてくれるのだろうかと海斗は期待する。
春香は表示のあった比較的大きなサービスエリアに入り車を停めると、店舗から少し離れた場所に設置してあるベンチに海斗を伴い腰掛ける。
四人ほどが腰掛けられる長細いベンチは、対面で座るものではないため海斗は首を回して春香の顔を伺う。対する春香は海斗の顔を見るでもなく、真っ直ぐ、どこか遠くを見つめながら言葉を紡ぎだした。
「さっきの父さんと母さんの喧嘩の話だけど……」
想定に違わない話題だがやはり身内の話、体に力が入り身構えてしまう。
父さんが浮気でもしたんだろうか。それともリストラ? 世間で云うような夫婦喧嘩の種になりそうな想像がいくつも浮かんでくる。そして同時に、それらの状況でどうすれば両親の仲を取り持つことができるのだろうか、と思惑を巡らせる海斗だが、結局は推測、話を聞かなければ対応も何もないだろうと、姉の言葉に耳を傾ける。そして、春香が続けた言葉は――
「父さんと母さん…… たぶん離婚するよ」
「―― ッ?!」
原因ではなく結論。想像していた話の遥か先の言葉に、海斗は言葉にならない言葉で姉に問い返すが、その答えはただの念押しにしかならなかった。
離婚―― それは家族の離散。片親だけがいなくなる場合もあれば、姉弟が別々になる可能性もある。しかし、間違いない事が一つだけある。それは、怪我により居場所を失った海斗の、最後の、唯一の居場所である温かい家庭がなくなるということ。
「…… なん、で…… ?」
何とか絞り出した海斗の言葉に、春香は何かに耐えるかのように口を堅く結び、目を閉じる。そして、心の中の何かを吐き出すかのように小さく長く息を吐き出すと、ゆっくり目を開け、そして海斗の言葉に応える。
それこそが何より、海斗の知る何よりも彼の心を抉り、彼の残されたささやかなものさえも否定するかのような言葉だった。
「…… 原因、は…… アンタの怪我だよ、海斗」
……
……
……
……
……
……
海斗には姉の言葉が理解できなかった。
原因は…… 海斗?
海斗って誰だ?
自分の夢を奪ったのも、
自分の未来を奪ったのも、
自分の居場所を奪ったのも、
そしてこれから自分の家族を奪うのも、
俺から全てを、全て、全て、全て奪った海斗は、海斗っていうのは――
その言葉の意味を理解したとき、海斗の足元は、世界の全ては音もなく崩れていくような気がした。
目の前が真っ暗になり、音の遠のき、そして座っているはずの体はゆっくりと――
「―― ッ!」
倒れなかった。
何かに…… いや、誰かに受け止められたような気がした。
遠のいていたはずの光が微かに戻り、焦点を失っていた視点は像を映し心に届ける。
見えたのは頭。柔らかそうな栗色の髪の毛。海斗のよく知る頭だ。倒れかかった海斗の身体を抱き留めたのだろう、背に回された腕にきつく力を込めた、それは海斗の姉の頭だ。頭の横に見える肩は震えており不規則な振動を海斗に伝えている。同じように震えている背に回された手は、か細く、か弱く、しかし決して離さないという意思が感じられた。そして、腕と同じように背を震わせる春香は必死に、ただ必死に言葉を絞り出す。
「ゴメン海斗っ。違う、違うんだ。悪いのはアンタじゃない」
それは家族を離散させる弟に対する恨み言ではない。
「悪いのは私たち家族なんだ。アンタに期待を被せて、アンタの夢に乗っかって。アンタが傷ついた時に何の力にもなりゃしない。何の支えにもなりゃしない」
それは後悔。
それは懺悔。
そして、何よりも弟に対する深い愛情からくる言葉。
そんな春香の言葉に、海斗は何も言葉を返すことができなかった。
何故ならば、姉の言うようなことを一度も考えたことはなかったからだ。
海斗の描いた夢は家族と共に進む道であり、破れた時に最後に傍に残ってくれたのもまた家族だった。最後の居場所、最後の支えこそが家族の存在だったからだ。
「ごめん、ごめんよ、海斗……」
そんな海斗には、泣き崩れる姉の体をただ強く抱き返すことしかできなかった。
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