第3話

 祖父が帰路につく前日。

 陽子は「秘密の場所を教えてあげる」と祖父の手を引いた。

 そこは、あの岩礁。丸く舞台のように海水が流れ込む入江。

 祖父が木陰から覗き見ていた、陽子が踊るように泳いでいたあの場所だった。


「ここか」


 秘密、の響きに何を期待していたのか。祖父の声にはやや落胆が混じる。

 陽子は「ここは特別な場所なのよ」とすこし声を高めた。


「ここは通り道、別世界へ続く場所なんだから」

「そういう言い伝えでもあるの?」

「ええ、そうよ」


 そんな話は聞いたことがなかった。が、地元の子だけが知っている噂もあるのだろう。祖父は軽く笑い、「それはすごいや」と目を見開いた。その仕草が陽子の癪にさわるとも思わないで。


「信じてないのね」


 つんと顎をあげ、陽子は祖父をにらんだ。

 しくじったと口ごもる祖父に一瞥くれると、陽子は岩礁から水中へと飛び込んだ。すっと滑るような飛び込みだった。祖父は「あ」と声を発したが、すぐに陽子の頭が浮かんでくるだろうと踏んで、しばらく棒立ちのまま待った。


 しかし、いくら待とうと陽子の姿は見えない。

 目を凝らすが、波うつ水面には黒々とした岩と崖の土色、そして上空の青が映り込む以外に何もなく、祖父はいよいよ焦ってきた。


「陽子」


 声が波音に吸い込まれる。かすれ声にひとつ咳をした。


「陽子」


 いない。溺れた? まさか、あの彼女にそんなこと。


 ――ここは通り道、別世界へ続く場所なんだから。


 いや、まさか。きっと底に抜け道のような空洞があるのだろう。

 あの泳ぎなら多少息止めを我慢すれば、トンネルのような場所をくぐって別のところから岩場に上がれるのかもしれない。背後から脅かすつもりなのだ。


「おい、ねぇ、陽子」


 いや、まさか。まさか、まさか。

 溺れたのだろうか。まだ現れない。足をつったのかもしれない。

 何かにひっかかったのかもしれない。

 何かが足を絡めとり、陽子を水底に留めているのかもしれない。


 祖父は躊躇して、一秒、そしてもう一秒、目を凝らし、耳をすませて待って。


「陽子」


 息を吸い込む。ここの水底は深い。覗き込めば透き通っているのに、ずっと奥は暗く紺色になっている。ぜったいに足は届かない。見つめれば見つめるほど、海底は得体の知れない仄暗さが深まるようだ。


 いま、隣に陽子はいない。

 この手を引き、連れて行ってくれる人はない。

 目を閉じて、心で呼びかける。


 ――陽子。


 祖父は意を決して海中に飛び込んだ。

 宙をかいたと思った瞬間、頭のてっぺんまで水に埋まる。

 目を閉じたまま、ふた掻きした。足をばたつかせてさらにもうひと掻き。

 目を開けた。暗闇だった。まばたきをすると、口から泡がこぼれる。


 ――陽子。


 上も下も、右も左も見失う。くるくると回転して。ごぼごぼと泡が登る。

 そして、見上げた場所に。太陽があった。たぶん、あれは太陽だ。

 水面を通して見たそれは、ゆらめきにじんでいる。


 まるで蜃気楼のようで。あの場所を目指して闇を抜けて行けば、こことは違う場所に出るようで。祖父は息を止めたまま、しびれかけていた足を蹴り、両腕を大きく突き出し水を横へと押しのけた。


 登っていく、あの光を目指して。あの場所はこことは違う世界なんだ。

 自分たちが住む世界とは異なる世界が広がっている。

 その場所では、今日が永遠に続く。明日はこない。

 ここにある明日は時は止めたまま、二度と自分を迎えには来ない。


 ――待って。


 手を突き出して、最後、海水を飲むこともいとわず口を開けた。

 水が流れ込む。目がちかちかした。のどが潰れる。

 暗い。なんて暗いんだ。目を開けているのか閉じているのかわからない。


 意識が遠のく中、風が吹いたように海中に波が起こった。

 頬になにかが当たる。髪のように思えた。長い髪。からむように頬をなでる。

 思い切って首をのばした。その何かにもっと近づきたくて。もっと、もっともっと。そのとき、唇がかすめたものに驚き、反射的に身を引いた。


 ――さよなら、海斗。


 がぼりといやな音をさせて、祖父は顔を海面から突き出していた。

 咳き込む。空気を吸った。大きく、体を膨らませるように。

 

 ゆっくり長く息を吐き、見上げた空。そこで、太陽はにじんでいた。


「陽子」


 つぶやいた祖父の声だけが、静かに岩礁の入り江で響いた。

 返事はいくら待とうと、そこに再び彼女の声が帰ってくることはなかった。


 翌年。祖父は再びこの岩礁にやって来たが、やはり陽子の姿はなく、ただ太陽を反射してきらりきらりと踊る光だけが、祖父の心を弄ぶかのように海面を彩っていた。海へもぐり、しばらくそのまま身をゆだねて海面に浮いていた。しかし。


「彼女は二度と、あの場所へは帰ってこなかった」


 祖父はそう言うと長々と息を吐きだして、肩を落とした。

 あれから海面の輝きを見るたびに「陽子、陽子」と呼んでしまうのだ、としょげてみせる。それから、人が変わったように、にやりと僕に笑いかけると、「この話はばあさんには秘密だぞ」と片目をつむるのだ。


「人魚の話をしてやろう」そうやって始まる思い出話。


 僕は小さいころから何度も聞かされている。

 祖父はいまだに面白いと思っているらしく、こちらはリアクションに四苦八苦しているのだが、当人は毎度満足そうだ。


「はいはい。陽子ね、陽子」


 そう言って、僕は肩越しにふり返った。

 そこでは台所でスイカを切るマナティ体型の祖母の背がある。

 母との会話に夢中のようで、こちらには感心がなさそうだ。


 さて、祖母の名前は「陽子」なわけだが。

 僕の祖母は……なんだろうか? それとも「陽子」違いだろうか。


 これは聞くに聞けない謎である。

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海が太陽のきらり 竹神チエ @chokorabonbon

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