憑物落し

 研究材料になってくれと言われ良い顔をする者は居ない。

 指導教官の口癖であった。梅干でも食わしたようない顔をされるがメゲるなと、言われ続けて杉本はこれまで民俗学徒をやって来た。そして今、アア教授の言は紛れ無き事実で有ったと噛締かみしめて居る。

 良いかい辰本さん真実ほんとうにねエ、真実の真実の真実にねエ、余計な事は書かないでおくれよウ。商売の種をアレコレ面白可笑しく書き立てられちゃ、オマンマの食上げどころの話じゃないんだからねエ……。

 教授の言通りい顔をした三十なかばの男は、姓を本間、名を新太郎と云う。杉本の母の生家の三軒隣で拝み屋を営んでいる。

 先祖代々此の稼業と、二年前には話して居た。六月前には橋の下で拾われた孤児みなしごで、養い親が偶々たまたま拝み屋だったので跡目を継いだと語って居た。五日前に一升瓶片手に豪語した所では、女郎の母を身請けた男の生業なりわいが拝み祓いで見様見真似で全て覚えたと云い、確かなのは言う事一ツも信用ならぬ点だけである。

 本間さん本間さん、良い加減覚えて下さい。僕は辰本でも岡本でも無い杉本です。

 オヤ、済まないね塚本さん。

 杉本です。其れとですね勘違いしないで頂きたいンですが、僕は記者じゃアなく学者ですマダ卵とはいえ。アクマデ学術的見地から本間さんの御稼業を論文にしようというので有って、面白可笑しく大衆に向けて書こうだなんて微塵も思っちゃ居ないのですよ。

 渾身の力説に本間はい顔を崩さない。杉本は内心溜息をついた。学の無い者は此れだから困る。

 本間の様な拝み屋稼業、有史以前から存在する加持祈祷の類は、二十世紀科学に押流おしながされ消えゆくさだめだ。東京から一日も掛かる田舎なら今少し生延びられるかもしれぬが、十年先か二十年先かの違いであろう。消えてしまえば記録は残らぬ。記録が無ければ存在しなかったと同じである。

 従って杉本の様な学識有るエリイトが記録をものさねばならぬが、当の消えゆくさだめの拝み屋にはトンと其の必要性が分らぬ。ソモソモおのれの生業が時代に呑まれる予感も無く、日日の過し方も実に飄飄ひょうひょうとしている。学が無いとはまこと哀しい。

 まア、ねエ。と本間は息をついた。あんたの祖母ばあさんには若い時分、よく稲荷寿司をまけてもらってたんだよねエ……。

 杉本の母の生家は一膳飯屋であった。今は伯父が継いで居る。

 本間が続けた。仕様が無い。いて来る分には構わないよ。ただし御務めの最中余計なお喋りは無しだ。それから、アタシが書くなと言った事はんなに書きたくたって絶対に書いちゃアいけない。守れるね、あんた帝大の学生さんなんだから。

 杉本はニッコリとした。エエ守ります守りますとも。学問の未来の為なら何だって致しますとも僕は。

 心からの笑みであった。

 論文の締切は今月末である。




 本間に荷物を持たされ市電で二人向かった先は、塀に囲まれた立派な洋館であった。大理石の階段を昇り品良い市松模様の廊下を抜けた先の部屋で、髭の紳士が待って居た。今回の本間の客であった。

 犬でも憑いているのだろう。と、客の口一番の言葉である。窓脇のソファに鎖でいましめられた、青白い青年を見ながら言ったのである。

 長男だ。今年で十六になる。十五を過ぎるまで出来が良かった。昨年秋から突然、部屋に篭って出て来なくなった。あまつさえ窓や壁や家具を叩壊す様になった。

 ホウホウ、と本間は頷き言った。何としてもお治しになりたいと、彼方此方あちらこちら回られたと伺いましたが。

 跡取りなのでな。下は女ばかり、めかけに産ませても男が生まれるとは限らん。

 ハハア、成る程。御察しいたします。

 ソファにいましめられた青年を、杉本は恐る恐る眺めた。白目を赤く血走らせ、歯をガタガタ言わせる様は、確かに正気には見えなかった。震える身に合せ鎖がガチガチ鳴っていた。

 御医者さまにもお診せになったのでしょうな。首を傾けまた本間が訊いた。

 診せたがうにもならなかった。

 成る程。

 と、青年がウウウと唸った。

 客は息子に一瞥もくれず、ただ一言言捨いいすてた。うるさい。余りに冷厳な声音に杉本は背を震わせた。青年の唸り声は一旦引込ひっこんだ。

 顔色一つ変えず本間は続けた。犬と仰いましたが、何ぞお心当りでも。

 曾祖父がな、ああ息子でなく私の曽祖父がな、昔、飼犬を切捨てたと聞く。口から涎をたらし誰彼構わず吼えかかりだしたと云うので、たぶれ犬にでも噛まれたのだろう。斬るより他に仕様が無かった訳だが、曾祖父は気にして祠を建て祀って居たそうだ。

 ホホウ。

 其れを代代供養して居たのだが、昨年旧邸を更地にして此処に今のやしきを建てた。その際に。

 ああ。と本間は喉奥から声を出した。潰して仕舞われた訳ですな、祠を。

 ウム、と客は眉間に皺を寄せた。青年はまだ鎖の合せ目をガチガチ鳴らしていた。

 うだね、酷いかね。

 エエ、まあ。と言った所で客が眉間に皺を寄せ、本間は慌てて言い足した。ですが御安心くださいまし、手立てはちゃアんと御座いますよ。

 本間は杉本の方を向き、ゴツゴツとした手を差出した。ポカンとしていると肘で突かれる。何呆けてんだい松本さん、先刻さっき預けた行李こうりだよ。

 竹を編んだ昔ながらの葛籠つづらかごであるが、持易いよう金具の把手とってがついている。本間の店を出てからズット持たされて居た。杉本はアアともエエともつかぬ声を出し、行李こうりを本間に手渡した。

 本間が床に広げた行李こうりには、杉本が書物や研究室で見たのに似た物が種種詰って居た。符に経文、数珠は当然として、仏具の一種である金剛杵三種、勾玉の連なった首飾り、呪の類の身代りとなる紙の人形ひとがた、カトリックの十字架数珠ロザリオ等である。妙に瀟洒な蒔絵の箱や、西洋の平面天文儀アストロラアベ、中が金平糖と思しき紙袋等、用途の想像のつかぬ物もある。

 サテ、れが宜しゅう御座いましょうかねエ。ふしをつけて口ずさみながら、本間は符を一枚手に取った。表と裏に筆で書かれた字は、教授であれば或いは読めたかもしれぬが、杉本にはサッパリであった。

 此方こちらに致しましょう。武蔵国の総社すべやしろは中殿におわす大國魂大神、またの名を大國主大神の、霊験あらたかな御符で御座いますよ。

 本間は青年に歩み寄った。鎖にいましめられた青年は凄まじい顔で唸り、何時いつだったか杉本が西洋文学科の知人に借りた、ダンテの『神曲』の悪魔の様であった。にも拘わらず本間は少しも怯まず青年に近付き、符を其の顔の前に差出した。

 と、青年がグッと身を乗出した。椅子ごと倒れ込む様に、本間の手に飛び掛って来た。

 ガチン、と、若い強靭な歯が空を噛んだ。本間が咄嗟に手を引かねば今頃、手は握った符ごと血塗れであった。

 一瞬遅れて、椅子が倒れた。脚を床と椅子とに挟まれ喘ぐ青年を、本間は背もたれを引いてまた座らせた。

 呆然とする青年の額に符をペタと貼った。唱えた。祓い給え清め給え。

 其れで終いであった。




 見事でしたねえ。と、戻った本間の店で杉本が言った。

 何時いつもああ云う感じなのですか。

 何時いつもじゃア無いよ。と、本間が答えた。湯呑みに注いだ焙じ茶を飲みながらである。尚杉本の分は無い。

 まア、たまにだねえ、たまに。

 たまと云うのは例えば月に一度ですか年に一度ですか。

 ええい細かいね帝大の学生さんは、一々数えた事なんざ無いさ。其れより坂本さん今回の御務めだがね。申し訳無いが論文には書かずにおいとくれ。

 エッ。杉本は声を上げた。待って下さい其れじゃ僕ぁ骨折り損のくたびれ儲けです。

 約束通りの筈だよ。言っただろうアタシが書くなと言った事は書いちゃアいけないと。

 だったらせめて訳を聞かせて下さい、うちの祖母ばあさんの稲荷寿司に報いると思って。

 コトンと湯呑みを卓に置いて本間は息をついた。あの御仁が財界でちょいと名の知られた御方だ、ってェのが半分。

 湯呑みをてのひらで押しやって、代りに四角い煙草盆を寄せて来る。煙管、煙草入れ、火入、灰吹といった喫煙用の一式が収まって居る。印籠を横に押し潰した様な煙草入れから刻み煙草を取出し、丸めた。

 残り半分は、まア、もっと簡単だ。あたしゃアあのおやしきで、何も祓っちゃア居ないんだからね。

 は、と、杉本は息を吐いた。いやシカシ、確かにあの若者はあの後大人しく……。

 逆さ、逆。祓ったんじゃア無い、憑けたんだ。手近に野垂死にした乞食の霊が居たんでね、あの坊ちゃんに憑いて貰った。そりゃ大人しくもなるだろう、乞食から三食御馳走が食える身分に成ったんだから。

 そ、そ、そ、と杉本はどもった。それじゃあ、若者に憑いて居た犬はうなったんです。

 ハハッと笑う本間はまだ煙草を丸めている。粉にして辛味を増すのが好みらしい。

 うもなっちゃ居ない。そもそも犬なんざ最初から居やしないんだヨ。

 居やしない、とは……。

 本間は漸く煙管の火皿に煙草を詰めだした。言ったマンマさ。ありゃあの坊ちゃんの自前の狂気だ。あの御客の様子を見る限り、跡取りとみて厳しく躾けたんだろうねエ。随分頭の堅そうな御仁だったしねエ。相当気丈じゃないと心が折れるだろうし、実際折れたんだろうねエ。

 其れならそうと何故言わなかったのです。杉本の訴えに本間はフフと笑った。

 あの手の御仁は言っても聞いちゃくれないよ。此方こっちの無能の所為にされて看板汚されるが落ちさ。其れにあのままじゃ辛いのはあの坊ちゃんだ。良く効く薬がある訳でも無し、待って居るのは格子の嵌まった部屋での一生だ。だったら可愛そうな身の上の霊に身を貸して安らかに、ついでに自分の口で腹一杯食わしてやって喜ばれ、ってエのは、良い落とし処じゃないのかねエ。其れに何より。

 本間はニヤリと笑った。

 何も憑いて居りません此れは自前です、なんて言ったら、ねエ。アタシが御銭おあしを貰えないじゃないか。

 杉本はアングリと口を開けた。二の句が継げぬとはこの事だった。本間はカラカラ笑い、煙管に盛った煙草にマッチで火を点けた。

 論文が終る見通しは、未だ立たない。

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大正拝み屋よもやま咄 柊キョウコ @hiiragikyou

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