夜泣き市松

 質屋のおかみは六十四、ソロソロ楽隠居するにも良い齢だが子は無い。ナニ旦那が遺したこの質屋が我が子サと、突っ張って居るか真面目か解らぬ事を言っては今日も棚をハタキで叩いて居る。

 昨日は書生が病の母の為、故郷に帰る金が欲しいとやって来た。差出したのは虫の食った綿入れで、おかみはスゲ無く追い返した。此の書生は前に穴の空いた鍋を手に父が危篤と訴えて、おかみは二〇〇銭程出してやったのだが、本当は麻雀でスッてしまって居たのを後から人に聴いたのだ。質屋と云うのはこう云う商売である。

 サテ今日のおかみだが、骨董趣味の成金が景徳鎮けいとくちんと宣うた下品な壷を、擦切れ掛けたぞうきんでセッセセッセと磨いて居た。其処にハラリと暖簾が上る。

 いらしゃんせ。

 と、おかみの声が低くなった。何だ新さんかエ。

 オイオイ何だとは何ダイおかみ。ヒョコと開いた戸の隙から知った顔が覗いた。

 着流しに雪駄を突っ掛けたのっぺり顔の男は此の近所で新さんと呼ばれて居る。新さんと云うからには名は新一だの新助だの新太郎だのだろうが誰もソウ呼ばない。遊里で良く煙管を燻らせて居ると男衆が云うからテッキリ遊び人かと思って居たが、人の噂に拠ると拝み屋らしい。タダ稼ぎが良く女郎に消ると云うダケの事らしい。

 冷かしならお帰りよ。おかみはマタ壷を磨き始めた。

 冷かしタァご挨拶だ。新さんはククと笑った。イヤ、いっそ其の方がれだけ良いか知れやしないが。

 何だい、勿体振って。フトおかみは気付いた。新さんは小脇に何か抱いて居た。三十路半ばの男の腕に凡そ似合わぬ可愛らしい市松だった。おとなしげな下膨れの顔におかみは覚えが有った。

 新さん其れは。

 覚えていたかエおかみ。新さんがニヤと笑った。オマエさんが流した品だよ。今日は此奴こいつの文句を言いに来たのだ。

 プックリとまるい頬の市松を新さんは抱え直した。サ、上げて貰おうかい。




 此の市松はネェ夜になると泣くのだよ。

 出された茶をズズと啜り新さんは言った。

 最も。コトッと茶碗を置く。

 オマエさんが知らん筈は無いね。此の質屋に十年も有ったのだから。

 新さんは座布団に胡坐、其の膝の上に市松はチョコナンと座して居る。おかみは自分の茶を啜った。其れがうかしたのかい、あたしの知ったこっちゃア無いよ。

 冗談言いなさんな。夜泣きの市松と知って流したンじゃないか。

 阿呆くさい。質流れにいわくなんざ付き物だよ。後から文句付けるが筋違いさ。

 オオ恐い。倍生きた女に睨まれて、新さんは肩をソビヤかした。其れも確かに道理だが、シカシだネエ。此れの今の主は七ツの娘でネエ。今暫くは飯事ままごとの相手、育てば着物を縫って裁縫の手習てならいにと親が買ったのだそうだよ。其れが毎晩シクシク声を上げて泣くと云うので、アタシの所に話が来た。此のままではアンマリじゃないかネエ。

 文句が有るなら娘の親にお言いな。おかみはピシャと撥付はねつけた。

 真ッ当な親なら、子に質に流れた市松なんざ買うもんか。験が悪くって仕様がないよ。ソモソモ新さん。おかみは背筋を伸ばした。若造にケムに巻かれる等面白く無い。アンタ何しに来たんだね。マサカ、此れを言いふらして欲しく無かったら金色のもなかを何て言うんじゃあるまい。

 ヘラと新さんが笑った。其れも悪か無いが、アタシゃ越後屋じゃなくッて拝み屋でネ。

 引取って欲しいだけなのサ此の市松を。代りに別のを貰いたい。質屋だもの一ツや二ツ有るだろう。

 おかみは鼻を鳴した。馬鹿を言うじゃ無いよ。何であたしが其処までしなきゃ成らない。

 大体アンタ拝み屋だろう。何が居るのか知らないが、念仏真言の一ツも唱えて其の市松から追ン出してみたらうなんだね。

 新さんは困り顔をした。のっぺり顔に深い皺が寄った。イヤ其れが確かに一番楽なんだがねエ。

 膝の上の市松に手を伸し何をするかと思えば、黒い髪をクシャリクシャリと撫回しかたり出す。

 此の市松に取ッ憑いた霊はネエ、トテモ可愛そうな娘なのだ。元は富裕の家の出だった。当主の菲才で傾いた。家財道具を残らず売ッ払い、まだ足らぬッてエんで売りに出されたのが娘サ。女郎と成って苦界に墜ちて、年季明け前に瘡毒をもらって死んだ。ナア可愛そうだろう。アタシゃ本人に聴いたンだ。

 情感込った語りだった。涙脆いならヨヨと泣き崩れたかも知れなかった。ダガおかみは質屋のおかみだった。御涙頂戴ならしょっ中聴いて居るのだ。そして其の九割迄が嘘っ八なのだ。

 運が無かったのさ。おかみはザクと捨てた。運の無いのは諦める他無いさ。

 冷たいネエおかみ。新さんは嘆く様な声を出す。

 オマエさんも女じゃ無いか。女なら女の心持解るだろう。

 おかみは唇をヒン曲げた。冗句贅言も程程にしろと、胸の内では思って居る。股に開いた穴の有リ無シで、解るも解らないも有るものか。女にもピンからキリまで居る。御華族様の屋敷に生まれ死ぬまで苦労知ずの女が居る。牛馬の如くにコキ使われて其のまま野垂死ぬ女も居る。

 ねエ新さん。おかみは声を出した。其の娘に同情したンなら何故ソウもあたしに押し付け様とするんだい。可愛そうと涙に暮れるなら側に置いておいたって構ヤしないんじゃ無いのかい。

 上手い事言包いいくるめ様として居るけどソウは問屋が卸さないよ。アンタは楽に事を納めたい、其れだけだろう。サッサと御銭おあしを貰って贔屓の女郎ンとこに行こうと云う腹だろう。女郎が可愛そうと泣いて見せて、ソラ涙も乾かぬうち女郎遊びだ。エエ、どうなんだい新さん。

 暫く新さんは黙って居た。やがてチエッと舌を打つ音がした。

 年の功には敵わんね。

 膝上の市松を抱えて座布団を立つ。

 置いて貰えヌなら長居は無用。茶も頂いた事だし失敬するよウ。

 失敬な客でも客は客、おかみは玄関先まで見送った。

 歩く度にチャラチャラと鳴る雪駄を履いて、暖簾を潜ろうとした所でウスラ白い顔がフト振向いた。

 別に嘘泣いた訳では無いのだよ。

 其の顔がイヤに真面目だったので、おかみは茶碗を片付け掛けた手を止めた。

 暖簾を持上げた手もソノママ新さんが言う。

 市松に憑いた娘はネ、アタシにコウ語った。

 ――あたくしは十九で死にました。男に祟らぬ様にと云うので、弔いの時に手足を畜生の様に縛られました。あたくしは男が憎くて堪りません。ケレドモ此の有様では祟りを為すのも儘なりません。葬られた墓、ケモノ墓と申しますが、其処も今は上に新しく屋が建ってしまって掘返して頂こうにもうにもならぬのです。

 ――女郎で有った頃は顔が腫れると好きに泣く事も出来ませなんだ。セメテ今こうして夜中に独り泣く位、好きにさせて下すったって良いじゃア有りませんか。地獄も知ず極楽も知ず手と足も思うに任せぬ此の身です。どうぞ放って置いて下さい。ねエどうぞ放って置いて下さい。

 新さんの語りは先とは打って変って念仏の様で有った。拝み屋稼業の真言とやらはこの様に唱えるのかも知れぬ。何の情も込らず淡淡として居た。

 ダカラ好きにさせて遣りたいと思ったのサ。其れには此処が一等良いと思った。アタシの所に置いておくのはアタシは別に文句がないが、男を怨んで居る此の娘には酷だろう。ダガおかみが嫌と言うんじゃ仕様が無い。

 失敬するよ。節ッぽい手がハラと暖簾を上げた。雪駄の後ろ金を鳴し出て行く。着流しが暖簾の向うに消えた。

 おかみは茶碗に手を掛けたまま暫く黙って居た。後ろ金のチャラチャラが遠ざかって行く。其れをジイッと聴いて居た。

 その内堪らなくなった様に駆け出した。草履を突っ掛け拝み屋に追い縋った。

 新さん。チョイトお待ちよ。新さん。




 質屋のおかみは六十四、ソロソロ楽隠居するにも良い齢だが子は無い。ナニ旦那が遺したこの質屋が我が子サと、突っ張って居るか真面目か分からぬ事を言っては今日も棚をハタキで叩いて居る。

 今日は角に住む禿親父が、水晶だと云う数珠を持って来た。細君に内緒で女に入込み、入込み過ぎて金に困ったらしい。う見ても硝子にしか見えない数珠に、おかみは一〇〇銭出してやった。親父が搾られる様な声を出したのは聴き入れなかった。質屋と云うのはこう云う商売である。

 あたしも大概人が好いよねエ。数珠の曇りを拭きながらおかみが言う。

 独り言と云う口調でない。誰かに話しかけて居る風だが、店の中には誰も居ない。デハ奥の座敷かと云うとコレマタ空、余人が見れば首を傾げるに相違無い。

 良く良く見れば帳場のはしに、市松が一体テンと座って居るのだった。やわらかな顔をした造りの良い市松である。棚に並んで居ないので売り物では無い。

 マア、良く良く考えたらアンタ十年も此処に居たんだ。モウ十年やソコラ此処に居たッて、大して違いやしないだろうヨ。

 其れにしても新さんめ、あの男。おかみが呆れた声を出した。

 先刻其処で行き会ったんだけどね。何処に行くンだいと声を掛けたら、一仕事片付いたからマタ女郎と遊ぶとさ。

 アノ時はあんな事を言った癖にねエ。其れと此れとは別なんだろうねエ。男ッてのは全く勝手だねエ。

 市松は顔の傾け具合に拠って笑って居る様にも見える。恐らく人形師の癖で有ろう。

 おかみはマタ硝子の数珠を磨き始めた。欠伸の出る様な昼下りの光景で有った。

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