最終話 『ネイルとクレア』
サッドという名の島がある。北岸に唯一の町がある他は、魔物と逃亡者が巣食う。
昨今その町には、新たに領主を継いだシリアス・ディス=サクレ子爵が直々に居を構えた。だからと討伐を行うでなく、町の防備をより厳重にしただけだ。
そこから南へ。島の中央辺りに、竜の城と呼ばれた土地。
古代竜は姿を消し、その名は過去のものだ。今は小竜たちが群れて棲み、名残りを見せた。
その西方に人間の背丈で五人分ほどの、ささやかな滝がある。水量と魚影は豊富で、晴れていればいつも虹がかかった。
「ママ、お腹が空いたよ!」
夕暮れも迫った森から姿を見せたのは、人間の女。それから小鬼と猪人が、それぞれ二人ずつ。
七色の橋の袂には、大きく土を盛った塚が。頂上の短槍は風雨に晒され、そろそろ柄が朽ちて折れそうだ。
手向けられた花は、今日にも摘まれたらしく瑞々しい。
「そうね、パパも待ってるわ」
女の名はクレア。来年で二十五の歳になる。背に長弓を担いで、塚にしばらく黙祷を捧げた。
子らに向けた微笑みのまま、最後に何ごとか呟く。
彼女より頭二つ分も大きな猪人が。老人のようにも見える小鬼が。彼女のことを、ママと呼ぶ。一人などは甘えたように、手を繋いでさえ。
「今日の群れはたくさんだったのに、逃しちゃってもったいなかったね」
「いいえ、それは違うわ。獲物を狩るのは、自分たちが食べる分だけ。それに、身を守るときだけ。いつもパパが言っているでしょう?」
彼らの手には、仕留めた鳥や兎が十羽。どれも致命傷は、矢による。
水辺を離れ、踏み分けた道を進む。それだけでも、彼らは楽しげだ。しかし戒めだけは真面目に、クレアが言い含めた。
「そんなこと言っても、パパは畑仕事しかしないし――」
「そうだね。この間だって海が見たいって頼んだのに、海は嫌いだって言ってたよ」
猪人と小鬼は、パパと呼ぶ男のことを意気地なしと言った。
表情は冗談めいて、嫌っているわけではなさそうだ。頼みを断られたので、意趣返しのつもりなのだろう。
「パパは意気地なしなんかじゃないわ。とても強いの。無駄に力を振るっても、いいことなんかないって知っているだけ」
「本当かなぁ?」
「本当よ。それに海はごめんね。つらいことを思い出すから、少しだけ待ってくれって。次の夏には必ず行こうって言ってたわ」
そう言うと、子らは「優しいからパパも大好き」などと現金なものだ。クレアもまた「パパに言いつけちゃおうかな」と、朗らかにからかう。
それからすぐ。まだ遠いが、一行の住む小屋は直線の先へ見えた。その前に広い畑があって、猪人さえ及びもつかぬ巨体の逞しい鬼人が、世話に汗を流している。
男の名は、ネイルと言った。鬼人と人間の間に生まれた
手にするのは斧でも槌でもなく、特注の鍬。話すのも覚束ぬ幼い子らを周囲に遊ばせて、楽しげだった。
「おぉい、パパ!」
一人が帰宅を叫ぶと、あちらも気付いて手を振る。かと思うと、何か驚いた風に鍬を投げ捨てた。
柵も飛び越え、子らが見たこともない憤怒の形相で、風よりも速く彼は走る。
「パパ――?」
ただごとではない。先の悪口が聞こえたなどと、幼稚な話ではなかろう。何が起きたのか怯える子らの耳へ、不吉な音が飛び込む。
シャァァァッ。
振り向いたそこに、暗闇があった。いや肉質の洞窟か。
即ちそれは、大蛇の開いた口腔。毒々しい朱の舌は小鬼の腕の太さほどもあって、それがいまにも頰を舐めそうだ。
「みんな、離れちゃ駄目!」
クレアは大蛇に向かって先頭に立ち、子らをひとまとめに背へ隠した。
猪人などは、それをさらに己の背へと引き戻す。そうして固まっていれば、大蛇は飲み込むことができない。
「オレの家族に何をしようってんだ!」
烈火が駆け抜ける。
熱気は彼の怒号と鼻息。灼きつくす
ネイルの両腕に力がみなぎり、大蛇の口を上下に掴む。
「クレア、今のうちに逃げろ!」
「分かりました!」
即答し、彼女は子らを先に逃がそうとした。だが猪人の一人が、「パパを助ける」と声を震わせる。
「これくらいなら、パパには朝飯前よ。助けてほしいときはそう言ってくれるから、今は譲ってあげましょう?」
口早に言うと、猪人はネイルの背を見上げる。力の足りない自分に、悔しさを滲ませて。
「悪いな、オレはこれで手一杯だ。クレアを守ってくれよ」
強引に口を閉じようとする大蛇。それを押し留めるネイル。互いの力は拮抗していた。
そのさなかに、彼は少し振り返って肩越しに告げる。この島に、危険はひとつと限らない。ママを守れと。
猪人は目に覚悟を光らせ、クレアと並んで他の子らを小屋に連れ戻す。
「ネイル!」
柵の内へ逃げ込み、クレアは叫んだ。続いて子らも、「パパ!」「頑張って!」と盛大なエールを送る。
「――聞いたか、おい。オレはあいつらの為に、負けてやるわけにはいかねえんだよ!」
何年ぶりか。岩をも貫く爪を押し立て、顎を握り潰す。たまらず大蛇は退こうとしたが、許さない。
一歩を踏み出し、より大きく口を開かせる。次の一歩で、大蛇の舌を踏み潰す。
「うおおぉぉぉっ!」
そこに渾身の力をこめ、上顎と下顎に永遠の別れを告げさせた。
勢い余って、頭蓋骨が捲れあがる。生命力の強い蛇と言えど、少なくとももう何を食うことも出来ない。
代わりに首から後ろが暴れ狂う。細木くらいは薙ぎ倒してしまうほどの力で。
「こんなのを相手にしたら、馬鹿を見るぜ」
ネイルは冷静に距離を取り、大蛇が力を失うまで待った。その間に彼の紅潮した肌も元に戻る。
焼けた赤土の色が、夕陽を撥ねて艶めく。
「パパ。後ろに気を付けろと言われてたのに、ごめんなさい」
「ああ、そうだな。これでどうなるか、分かったろう? 次こそ気を付けろよ」
小言はそれで終わりだった。大蛇の肉は酒樽に漬け、気紛れに訪れるドゥアへの土産に。先日やって来たリーズがくれた、この辺りにはない果実をデザートに。
いつも通り、一家の晩餐が始まる。
「ある日。魔の島で、鬼人に出会った。優しい魔物の王、鬼人に出会った」
子らの歌声が、夜を迎えた森に響く。それはこの辺りの、毎日の風景だ。
― 赤き鬼人と笑わざる乙女の青 完結 ―
赤き鬼人と笑わざる乙女の青 須能 雪羽 @yuki_t
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