第52話 クレア‐09 『微笑の背景』

 そのとき。

 指輪の触れる指から、胸の辺りへ。それから反対の腕や、首に。最後には頭から足先まで、全身へ温かい湯を流し込まれたようにクレアは感じた。

 四肢からゆったりと力が抜け、顔から首にかけてはまた温度が上がっていく。

 終いには、熱湯に浸けられたかのごとく。だのに痛みはなく、不快でもなく、心地よかった。

 その熱さは、顔面のあちこちで特に強い流れを作る。

 口角を上げ、頰を弾ませ、目尻を落とさせた。使ったことのない筋肉を、経験のない方向へ勝手に動かし、表情を変えさせる。

 そのうえ、胸の奥へ何とも言えぬ膨らみを置いた。

 胸がはちきれそうで、けれども悲しみによるそれとは違う。何か似た記憶を探すと、母に物語を読んでもらい、頭を撫でられたときがそうだ。いやその何倍も。

 あれはクレアの、数少ない幸福な記憶だ。

 ――ああ、そうか。わたしは幸せなんだ。


「ネイル。ネイル!」


 この気持ちを、彼に伝えたい。叫ぶと同時に、信じられないことが起こった。

 ぼんやりとした向こうに、何か透けている。話に聞いた、丸という形ではない。まっすぐばかりで作られた、何か。

 その中には丸が二つ。きらきらして、よく動く。下のほうにあるのは、穴だ。小さいのが二つと、大きなのが一つ。

 ――これは、赤。赤い鬼人。わたしの、愛しいあなた。


「あなたの、あなたの顔が見えます!」

「なに……?」


 大きな穴が動いて、彼の声が聞こえた。これが口。するとその上は、鼻。きらきらは眼。

 これが怖ろしいなどと、皆どうかしているのではと思う。他の誰も、どんな顔なのか知らないが。

 それでも分かる。彼が心から、案じてくれていると。顔が見えると言ったら、半分泣きべそをかきながら喜んでくれたと。


「ああ、オレにも見える。クレアの青い目が」


 言葉どころか、音の一つひとつが。クレアの奥底にある泉に波を立てた。それがそのまま、身体をぶるっと震わせる。

 抱きしめてほしい。腕を伸ばすと、思う通り。引き寄せられた腰よりも太い腕が、夜具かと錯覚するほどに柔らかい。

 歓びに、声が漏れた。うふふ、と。これまで発したことのない、聞いたことのない自身の笑声。

 ちょっとばかり湿っているのは、クレアも泣いているからだ。


「クレア。笑ってるのか? これがお前の笑顔なのか?」

「分かりません。でもきっとそうです。どうでしょう、わたしの笑みは。おかしくはありませんか?」


 じっと、覗き込まれる。どうだと聞いたのはこちらだが、恥ずかしい。両手で顔を覆いたくなった。

 しかしそれをネイルの手が掴む。「もっと見せてくれ」と、懇願されては断れない。


「クレア、お前は美しいと思う。笑う前からだが、笑えば最高にだ。笑わせてくれたこの指輪は、最高の宝物だな」


 恥ずかしげもなく、よくもそんなことを言えるものだ。先とは別の熱さで顔が火照る。

 このまま熱死させるつもりか。と、それほどに照れくさい。

 しかし「もうやめて」とは言わなかった。

 ネイルは魔物には魔物の、人間には人間の良いところがあると言った。差別なくそう考えるから、褒めるのにも遠慮がないのだ。

 これを止めれば、二度と言ってもらえないかもしれない。それはそれで、嫌だった。


「違います」


 けれど一つ、訂正すべきことはある。


「笑わせてくれたのは、ネイル。あなたです」

「オレが? オレはただ、そうしてほしいと言っただけだ」

「そうかもしれませんが、それだけではないんですよ」


 幼いころ。優しい母に触れていたころには、笑っていたのだろうか。母の声は思い出せても、己の顔は分からない。

 その後はずっと、貶められてきた。歩けば邪魔だと、座っていれば気楽なものだと嘲笑われた。

 試みにペンを持てば、身の程知らずと。衣服を乱せば、直すこともできないのかと。食事も排泄も一人でできず、無能には困ると言われ続けた。

 そんな日々が、クレアの自由を奪ったのだ。気持ちは萎縮し、指一本を動かすのも怖くなった。あてがわれた部屋に、ただ居ることさえ。罪であるとしか思えない。

 なのに侯爵家の娘と呼ばれ、クレアにとって全力以上の立ち居振る舞いを求められる。それがまた嘲笑を買って、どうすれば良いのか分からなかった。


「あなたがわたしに、居場所をくれました。生きたいように生きればいいと、教えてくれました。どれだけ頼っても、必ず答えると示してくれました。怖れるものも、打ち壊していけと」


 それがどれほど救いになったか。クレア自身にも、大きさを掴みきれない。


「だから、笑えました。あなたが居れば、怖れるものは何もない。そう信じさせてくれたから。だからあなたを好いたのですよ」

「オレは何をしたつもりもねえが――お前がそう言うなら、そうなんだろうさ」


 クレアはまだ、世界の誰の姿も知らない。ただ一人、困ったように笑むネイルだけだ。それでも断言できる。クレアには、彼が最高の相手だと。

 優しく頰に触れるごつごつとした手を取って、はしたない想いに顔を隠す。その実はネイルの指に、愛しい想いをこめてキスをした。

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