10『安定限界』

「なあ、ちょっとエグいこと訊いていいか?」

 地磯にて、屈んだままヤドカリと戯れる従兄が、僕に背を向けたままそう言った。随分不吉な前置きだなと思いつつ、僕は律儀に首肯する。彼に見えていないことはわかっていたが、疑問符はどうせ飾りだろう。イエスと言おうがノーと言おうが、コイツなら訊いてくる。


「お前、今先輩の元カノと一緒に帰ってて、しかもぶっちゃけたハナシ好きなわけじゃん? それ、滅茶苦茶しんどくないか」


 正直、たじろいだ。軽く目眩がする程度には。

 あえて形を与えず、頭の中をふわふわと漂わせていたものを一切の容赦なく言語化されてしまった。もし俺がお前の立場だったら──と言って、従兄は喉仏のあたりで人差し指を真一文字に走らせる。べーっと舌まで出して。

 僕のメンタルは、あいにくそこまで軟弱ではない。

 ただ──。

「そりゃあ、結構しんどいときもあるよ」

「だろ? いいのかそれで。お互いにさ」


 ×××はさ、ではなく、にか。


 中々どうして──突いてほしくないところを突いてくる。

「僕は、あの人にとって砂時計みたいなものなんだよ」

 言って、流石に恥ずかしくなった。あまりにも表現がポエティック過ぎる。熱でもあるのかと訝しげな視線を寄こしてくる従兄に対し、僕は慌てて補足する。

「だから、何て言うか、見てて癒されるインテリアってこと。桐宇治さんにとって、僕はそういうものだから」

 そう、桐宇治さんにとって僕は砂時計であり、ループする漣でもある。変わらないものの象徴。遠くへ行ってしまった好きな人の置き土産。


 彼女の胸のざわめきを少しでも落ち着かせることができるのなら、僕は。


 従兄が吹き出した。唐突な笑い声で現実に引き戻される。腹を抱えて、肩を小刻みに上下させながらくつくつと笑うさまに、僕は植木先輩を重ねた。ちらりと覗いた歯が、やけに白く見えたせいかもしれない。

「いやぁ、俺高校の頃初めてカノジョできて舞い上がったけどさぁ」

「何だよ。自慢か?」

「違くて。多分×××ほどじゃあなかったなって」

 従兄の口元から、徐々に笑みが消える。あ──とか細い声が僕の口から漏れて、つい後退りをした。いやな予感がした。自分の心のどうしようもなく脆いところを触られる予感があった。

 従兄の真っ直ぐな眼差しが僕を捉える。


「カッコつけて第三者ヅラすんのもう止めろよ。ベタ惚れじゃん。おまえ」


 口調こそいつもの従兄と同じ、年相応でぶっきらぼうだったけれど。大人が小さな子どもを諭すような声だった。ほんのひと摘みの呆れを含んだ、やさしい兄貴分の声だった。

 さすがに涙で前が滲んでいるなんてことはない。ただ──。

 本当にちょっとだけ、泣くかもと思った。

 僕は、すんと鼻をすすった。

 何だか、感じたことのないにおいがした。


 両の耳たぶを摘まれて、はっとする。桐宇治さんが、悪戯っぽい眼で僕を見ていた。

「冗談だよ。キヨモリすぐ本気にするじゃん」

 桐宇治さんが、僕の耳から手を離した。微笑んで、立てた爪先を支点にくるりと背を向けた。一息ついて、歩き出す彼女の後ろ姿をのんびり追いかけながら、僕は考える。

 どう、答えるべきだったのだろう。

 一緒に行きましょうと嘘でも同意すべきだったのか、一緒には行けないと、植木先輩とのことはもう思い出にしましょうと突き放すべきだったのか。それとも、桐宇治さんの言葉通り今のは冗談で、こんな思考はとっとと打ち切るべきなのか。

 桐宇治さんが、不意に足を止めた。振り向いて、ねえキヨモリと僕を呼んだ。

「生徒会にさ。綺麗な女の人いるじゃん?」

「──藤堂先輩ですか?」

 そうそう藤堂さんと言って、桐宇治さんは小刻みに頷く。生徒会に女子は二人いるが、もう一人は明らかに可愛い系だろう。

「その人に偶然聞いたんだけどさ。ここの浜、養浜してるんだって」

 ──ヨウヒン?

 僕は、ゆっくりと桐宇治さんの目線を追った。

 砂浜と海。僕にとっての変わらない象徴。

 けれど、改めて見ると妙な感じがした。空が薄らオレンジ色に染まっているのに対し、海はそこまで夕映えしていなかった。昼間見るのと大差ない青磁の肌みたいな色をして、山肌むき出しの島を浮かべた、良くも悪くも日本の海だった。


 こんな──色だっただろうか。


 空も海も、もっと鈍いオレンジ色ではなかっただろうか。

「前言ってたじゃん。この浜辺ちょっとずつ削れてきてるって」

「そりゃあ、言いましたけど」

「養浜って言って、砂浜を新しく造ってるんだよ。だからね」

 桐宇治さんが、言葉を切った。僕の方に顔を向けて、屈託なく笑った。


「私ら沈んだりしないよ。まだ、もうしばらくはだいじょーぶだよ」


 海風に桐宇治さんの髪がなびいて、耳がちらりと覗く。

 ピアスの穴は塞がって、痕だけが残っている。

 ──ねぇ、キヨモリ。真面目なの方が、モテるのかな?

 そこに、何か意図はあるのだろうか。植木先輩は未だ桐宇治さんにとって意中の人で、今なお彼女は"真面目な娘"を貫こうとしているのだろうか。それとも、単にピアスに飽きてしまっただけなのだろうか。

 それとも、それとも──。


 最初から、関係なかったのだろうか。


 ピアスを着けなくなったことと植木先輩とのこと、元より全て僕の妄想に過ぎなかったのだろうか。そう考え出すと、途端にその説が濃厚に思えた。僕は余計な勘繰りで、自分の首を絞めていただけなのだろうか。

 桐宇治さんが、前を歩いている。

 どうして──あのとき、名前で呼んだのだろう。僕をキヨモリと呼ばなかったのだろう。

 否、桐宇治さんのことばかり言えない。

 僕だって、どうしてあのとき。


 しずかさん、などと。


 いつだって、本当に知りたい貴女の気持ちはわからなくて──。それでも。

 まあ、いいか──と思える僕がいた。

 これまで通り、桐宇治さんの斜め後ろを死守する僕がいた。


 だって、もうしばらくはだいじょーぶなのだから。


 海に、沈んだりはしないのだから。

 さて、今の僕を従兄が見たらどう思うだろう。意気地がねぇなぁと苦笑いの一つでも零すだろうか。けど、これでいい。彼女にとって、僕は変わらないものの象徴。見ていて癒される砂時計であり、終わらない漣なのだから。

 桐宇治さんの隣に立つことは──植木先輩の代わりになろうとする行いは、彼女の望むところではないのだから。

 これまで通りの立ち位置で、これまで通りのキヨモリであり続ける。


 それが、桐宇治静にベタ惚れしている僕にできる、精一杯の愛情の示し方。


「桐宇治さん!」

 自分としては腹から声を出したつもりだったが──存外乏しい声量で密かに苦笑するほかない。大声を出す習慣があまりにもなさ過ぎる。まあ、桐宇治さんが振り向いてくれたので良しとするけども。

「これからも帰れるときは一緒に帰りましょう。僕──他に一緒に帰る人いないので」


 いつか、僕と桐宇治さんの関係は終わる。


 僕の立ち位置は、僕にしか担えない役目ではないからだ。

 遠くない未来、僕よりずっと──ささやかな癒しに繋がる存在が見つかるかもしれないし、そもそもそんな存在など要らなくなるくらい、彼女の隣に立つにふさわしい素敵な男性ひとが現れるかもしれない。

 そうしたら僕は──嫉妬するだろうか。ああ、やっぱりあのとき告白しておくんだったと後悔するだろうか。

 ──しそうだな。何だかんだで。

 でも、今はそのありえそうな未来もひっくるめて、この人といる時間が愛おしい。この年にして、この愛情の形はやっぱりどうかしているのだろうか。

 桐宇治さんが目を瞠った。つかの間、何かを堪えるような顔をした。それから、人差し指で目尻の辺りをそっと擦ると、


「奇遇じゃん。私もいないんだ。一緒に帰る人」


 と言って──笑った。

(了)

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安定限界 姫乃 只紫 @murasakikohaku75

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