09『永久磁石』

 海に沈む夢を見た。


 目が醒めてしまうと、まるで細部は憶えていなかった。僕自身が沈む夢だったのか、それともこの町ごと沈む夢だったのか、その違いさえ思い出せない。

 ただ、夢の中で。

 僕はもがいてはいなかった。そして、桐宇治さんと一緒だった。

「──」

 ふと、植木先輩に連絡をとらなければという衝動に駆られた。どうしてかはわからない。時計を見ると、少なくとも僕の良識では電話をしてもぎりぎり無礼にならない時間帯だった。先輩が卒業して、この町を離れてからというもの、連絡は一度もとっていなかった。

 携帯の電話帳から植木先輩の名前を選択する。コールが続く。心のどこかで出ないでくれと願う自分がいた。何か傷付けるようなことを口走ってしまいそうでならなかった。そして、通話は繋がった。

「──キヨ?」

 携帯から漏れる他人ひとの声と車の通る音から察するに、植木先輩はまだ外にいるようだった。今、出てるんですね。じゃあかけ直しますという言葉を寸でのところで飲み込む。


 ここで切ってしまったら、もう二度目はない。


 お久しぶりですと言葉を絞り出す。何だか僕の声ではないように感じられた。

 ああ、そうだなと言う先輩の声は僅かな戸惑いを含んで聞こえる。けれど、冷たくはなかった。

「ホント久しぶりだ。元気してたか?」

「ええっと──」

 つい、上を向いて考え込んでしまう。返事の中身に迷ったわけではない。このまま当たり障りのない話を続けるべきかどうかに迷ったのだ。それもいいんじゃないかと心のどこかにいる僕が言った。

 そうだ。いいじゃないか、それでも。何だったら電話帳を整理していたら偶々植木先輩の名前に触れてしまったと言い訳すればいい。自分に嘘をつくのは、僕の得意分野だ。

 先輩の背後で車が風を切って、何台も走り抜けてゆく。何だかループしているみたいだった。錯覚だとわかっていても、そう考えるとすんごくではなかったが、落ち着いた。

 でも──。

 胸のへんは、ザワザワしっぱなしだ。


「どうして桐宇治さんと別れたんですか」


 意を決した──というふうではなかった。

 胸の奥につっかえていたものが、何かの弾みでとれた。そんな感じだった。

 植木先輩が小さく息を飲んだ。それから、すげーなと幽かな苦笑を混じえて呟いた。

 僕もそう思いますと心の中だけで同意する。

 やや間があって、先輩はこう言った。


「キヨ、桐宇治アイツのこと好きだったよな」


 僕は、通話を切った。

 かっと頭に血が上ったわけではない。自分でも驚くくらい冷めていた。携帯の液晶に映る、植木先輩の名前をじっと見つめる。恐らくあの一言で終わりではないだろう。きっと続きがあったはずだ。

 僕に気を遣っただけではなく、遠距離恋愛を続ける自信がなかったとか、そもそも卒業までしか付き合うつもりはなかったとか。

 苛められている桐宇治さんを救うためには、それが考え得る限りの最善策だったとか。

 ──苛めというのは、そう簡単になくなるものなのか。きっかけが消失したところで、あの手の集団の悪癖は、惰性で続くものじゃないのか。それは本当に桐宇治さんを守る、考え抜いた末の最適解だったのか。

 どういう続きがあったにせよ──。

 もう、これ以上話すことはないと思った。だから、通話を切った。

 先輩から電話がこない以上、向こうも向こうで察するものがあったのだろう。

 重力に身を預け、ベッドの上へ大の字になる。

 そういえば、僕は二人が別れたタイミングを知らない。卒業前に別れたのか、ひとまず遠距離恋愛を続けるつもりだったが、色々すれ違いがあって別れるに至ったのか。

 いずれにせよ、もう別れているのであれば誠実じゃないか。だらだらと変に長引かせず、浮気をしているわけでもない。まさに誠実そのもの。清い交際だったわけじゃないか。

 そりゃあ、僕みたいな第三者に今さら口を出されたら、ああも言いたくなる。

 遠回しに、お前に気を遣ってやったんだとでも言いたくなる。


 途端──自分が惨めに思えてきた。


 ただ、胸のへんのザワザワはいくらか静まっていた。

 植木先輩の名前を電話帳から削除しようとして、止めた。それは何だかあまりにもドラマめいているし、自分に酔っている気がしたから。それこそ次に連絡するときがあるとしたら、それは電話帳を整理していて偶々指が当たったときでいいだろう。

 そう、考えることにした。

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