08『ストークスの法則』

 あの日と同じ鈍いオレンジ色の中、桐宇治さんの少し前を歩いている。

 前後が入れ替わることはあっても、肩を並べることは決してない。

 男性は女性に比べて、見分けられる色の種類が少ないという。実際、この夕焼けの色はあの日のそれとは違うのだろう。けれど、夕陽に染まった空も海も、僕には全くあの日と同じものにしか見えなかった。

 全く、あの日と同じ。


 ──ループすると、すんごい落ち着く。


 ブレザーのポケットに隠した拳をぎゅうと握りしめる。

 漣が聞こえる。桐宇治さんの携帯から流れていたものとは違う、途中でループしていない、正真正銘の自然音。けれど、どこか遠くて、何だか耳鳴りみたいだった。いや、どこかも何も事実物理的に離れているのだから、それは当り前のことなのだけれど。

 何故だか──腑に落ちない自分がいた。

 まるで、駄々をこねている子どもみたいだ。

 右手には海が広がっている。海面と空の境界には、山肌のむき出しになった島が横たわっている。何であんなことするんだろうねと、桐宇治さんが呟いた。視線の先から島のことを言っているのだとわかった。

「石を採取してるんですよ。一応この町の主要産業らしいですよ」

 桐宇治さんは、ふぅんと聞いているともいないともとれる返事をする。

「何かさ。ああいう所にいるとさ。性格悪くなりそうじゃない?」

 それは──。

「流石に偏見が過ぎるんじゃないかと」

 違う違うと言って、桐宇治さんは顔の前で素早く手を振った。

「よくさ、洋画なんかであるでしょ。悪いヤツらが、悪そうな街で、悪そうなカッコで悪そうな吹かしてヨーメーンみたいな」

 ──やっぱり偏見が過ぎるんじゃないか?

 あと、悪そうな葉っぱって何だ。まるで世間に良さそうな葉っぱがあるみたいじゃ──いや、あるな。観葉植物とか、ハーブとか。それはもう溢れんばかりに。

「私ね、場所が人の性格を悪くすると思うんだ。海が近くて自然豊かなところに住んでたら、そこまで性格歪まないって思わない?」

 ああ、だとするとさっきのは。


 あんな空気の悪そうな場所にいたら──と言いたかったのか。


「言われてみるとそうですね」

 別段安易にした同意ではなかった。僕だってスラム街の住民になったとしたら、自販機のゴミ箱に家庭ゴミを突っ込むくらいの悪事は働きそうなものだ。

 しかし──。

 僕は、辺りを見渡す。

 自然が豊かで、海が近い。けれど、美しいと思ったことはあまりなかった。修学旅行で行った、某観光地の美術館の方が余程美しいと思った。その辺りは都会に幻想を抱く田舎者の性分なのか。これは滅多に見られないぞという希少性が、より良く見せただけなのかもしれない。

「だからさ」

 桐宇治さんはちょっと言い淀んで、続ける。

「いけないのは場所の雰囲気っていうか、空気っていうか」


 ああ、自分で言うのも何だけれど。


「誰かが悪いってワケじゃないっていうか」

 こういうときの僕は、察しがいい。言いたいことがわかってしまう。

 相手の気持ちを本当に知りたい場面では、どうしようもなく鈍いくせに。

 あの人は好きで変わったんじゃない。遠い街の悪い空気が、きっと植木先輩を。

 そんな。それは、あまりにも──。

「ごめん。何言いたいんだろう。こんがらがっちゃった」

「いいんですよ。気にしなくて」

 桐宇治さんはごめんと言って、誤魔化すように笑った。ちっとも誤魔化し切れてはいなかった。彼女の中を言葉でまとめ切れない何かが、駆けずり回っているのがわかった。当てどなく、躰をあちこちにぶつけながら。傷付きながら。

 桐宇治さんは、どうせすぐに途切れる短い縁石の上を、ヤジロベエみたいな格好で歩く。下りては上り、下りては上りを繰り返して進む。

 そんな彼女の足を飾るのは、良く言えば流行に左右されないデザインのスニーカー。去年の夏頃まで、桐宇治さんは学校指定のローファーを履いて登下校をしていた。


 それが、ある日突然スニーカーに替わった。


 靴替えたんですねという僕の何気ない感想に、彼女は靴擦れ酷くってさーと苦笑混じりに言った。

 そのときは僕も偶々似たような経験があったので、わかりますよと特に違和感を抱くことはなかったのだが──。

 その数日後、小耳に挟んだ噂は今も僕の脳裏を離れていない(学校の中庭にさ、ぱっと見沼にしか見えない噴水あるじゃん。あそこに女物のローファーが浮いてた。拾ったって? 拾うワケねぇだろ。だって関わり合いたくねーじゃん)。

 植木先輩が卒業して以降、心なしか彼女の言動は幼くなった。もっとも、大抵は先輩と三人一緒だったので、僕と二人でいるときは、元よりこうだったかもしれない。

 僕は、海に目を向けた。


 鼻をかすめるこのにおいは、きっと磯のにおい。


 昭和初期生まれの祖父が、子どもの頃はこの砂浜が沖まであったと教えてくれた。砂浜は年々後退しているという。だったら、今僕が歩いている歩道も、振り向けば見える住宅地や古い町並み、さらにはあのナンセンスな赤茶色い建築物さえも。

 いつかは波に飲まれるのだろうか。

 海の底へと沈むのだろうか。


「──」


 名前を呼ぶ声がして、酷く驚く。タイミングに驚いたというより、実名で呼ばれたことに、キヨモリではなかったことに絶句した。

 からだごと振り返って、目を疑う。歩道と砂浜の境界線となる、僕の腰より僅かに高い石塀。その上にいつの間にか桐宇治さんが座っていて、さらには立ち上がろうとしていた。

「危ないですよ」

 声が、幽かに震えている。

 危ないよ──と桐宇治さんは同意した。

 どういうわけか、薄い笑みまで口元に湛えて。

 石塀の向こうに広がる砂浜と今僕が立っている歩道の高さは、確か──そう変わらない。だから、危ないと言えば危ないのだけれど、正直声を失うほどではない。


 その上にいるのが、桐宇治さんでなければ。


 手を後ろに組んで立つ桐宇治さんは、ひどく危うげに見える。

 心臓がうるさいぐらいに鳴っている。漣はいよいよ聞こえなくなってしまった。ああ、砂浜は侵食されて、海岸線が迫っているのではなかったのか。

 桐宇治さんが胸を反らした。白い喉が露わになって。

 彼女の躰が、後ろへ、砂浜が、海が広がる方へ。

 傾いたように、見えた。


 ──しずかさん。


 海風が吹いた。チョコレートみたいな色の髪が揺れて。

 見えた、白い耳たぶには(ここでこの表現は正直どうかしている。だって、僕は今日この瞬間ときに至るまで何度もそれを見る機会があった。彼女のピアス穴がどうなっているのかをわかっていた。それなのに──この一瞬は、どうにも眼に焼き付いた)。


 知らず、桐宇治さんの手を引っ張っていた。


 これほどまでに遠慮なく誰かの手を掴んで、引き寄せたことはなかった。

 細い躰を受け止めて、薄い両肩に手を置いて、大丈夫ですか──という一言さえ発する余裕はなかった。とりあえず、共倒れになった末、二人とも怪我をするという最悪の事態は免れた。

 そのことに、安堵するのでいっぱいいっぱいだった。

「す──」

 口の中がカラカラで、すみませんの一文字目までしか出てこない。

 桐宇治さんと距離をとろうとしたところで、ぐいと引き寄せられた。首の後ろに両腕を回された。脳の処理がまるで追いつきやしない。彼女は、お互いの頬が触れ合うくらい僕に顔を近付けて、そっと耳打ちをした。


「ねえ、二人で追いかけよっか」


 その言葉で、たったそれだけの文字数で。

 ──キヨモリもこっちなんだ。そーなんだ。

 何となく、あの呟きの意味がわかってしまった。

 僕は、桐宇治さんにとって植木先輩に置いていかれた者同士。

 傷の舐め合いを繰り返す、地磯の石なのだ。

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