07『薄暮係数』
従兄と二人、緩やかな坂を下っていた。久しぶりに通る、小学生時代の通学路だった。友だちと一緒に自転車で駆け下りた憶えが何度もある。道の両脇には見憶えのない、全く同じ造りの建物が並んでいた。塗装を見るに建って間もない住宅なのだろうが。赤レンガ色の屋根に、同じく赤レンガ色の外壁。
これは、ちょっと素人から見ても──。
「だっさ。これ共営住宅ってヤツだろ? 移住生活が流行ってるからそれに便乗したいんだろうけど、だからってこれはナイわ」
これじゃあ出てった若いのも帰ってこないってと、従兄は知ったような口を叩く。
概ね同意だった。あと、多分公営住宅だと思うというツッコミは控えた。もしかしたら、僕が無知なだけでそういうものがあるのかもしれない。
「訊きたいんだけどさ」
「おう、どうした?」
「僕、どこに連れて行かれようとしてるの?」
従兄は足を止めて、こいつ信じらんねえと言わんばかりの顔で僕を見た。
「あのなぁ。×××は俺に連れて行かれてるんじゃなくて、勝手について来てんだよ。ただの散歩に決まった行き先なんてあるか」
そう言って、また前を向いて歩き始める。
確かに、思い返してみるとそうだった気がする。久しぶり、大きくなったねえ、私のこと憶えてる──と名前も続柄もわからない親戚たちからひたすら言われ続ける儀式に嫌気が差して、従兄と一緒に家を抜け出して来たのだった。
住宅地を抜けて、海沿いの道路を渡って、岩場まで下りる。足許が悪い場所を歩くのは、久しぶりだった。記憶を一つひとつ丁寧に辿れば、案外そんなことはないかもしれないが。ただ、何というか──足の裏の感覚に注意を向けることが久々だった。普段死んだようにひっそりとした脳の部位に、微弱な電流が走るような心地だった。
「──石浜?」
「は? 何だって?」
「砂ばっかりなら砂浜じゃん? こういうところって何て呼ぶんだろって思って。石ばっかりだから石浜?」
従兄は苦笑しながら首を捻ると、
「──
と言って、その場に屈んだ。何やら足元に転がる石を注視している。
「物知りだね」
「ほら。俺、釣りするから」
──釣り用語なのか。
従兄は石を一つ拾うと、軽く掲げて僕に見せた。綺麗に丸みを帯びた石だった。
「これが碁石になるんだってよ。知ってたか?」
僕は一八〇度地磯に視線を巡らせて、
「──これ全部?」
と尋ねた。
従兄は、ややのけ反りながら小刻みに頭を振った。
「いや、全部はならねーって。原石だって全部宝石にはならねーだろ。なれるのは優秀なヤツだけだって。多分だけど」
そう言って、従兄は持っていた石を放った。彼の手の中にあったとき、他より確かに小奇麗に見えたその石は、地面に落下すると途端に他の石と区別がつかなくなった。
「でも、優秀だからってなりたいもんかな」
「何だ? 碁石の続き?」
「そう。別に碁石になって人に使われることが石の幸せってわけじゃなくない? いや、自分で言ってて何だよ石の幸せってとか思うけどさ。原石だって似たようなもんじゃない? 宝石になって人の首やら指やら飾ったりすることがそんな幸せかってなったら、うーんって思わない?」
僕は、その場に片膝をついた。明後日の方向を見ながら、クジでも選ぶような気楽さで、一つ手に取ってみる。確認して、ぎょっとした。
僕の記憶が確かなら、パワーストーンの店で似ているものを見かけたことがある。艶やかで縞模様の入った褐色の石。これは、メノウというヤツじゃないのか。
「どうしたお前。哲学じゃん」
従兄は、僕がそれを拾ったことに気付いていないようだった。哲学かなぁと首を傾げながら、僕はそれを陽の光で透かし見て、際立つ流れるような模様にこれは他のやつと違うぞ確信して。
ねえ──と従兄を呼ぼうとしたところで、口を
「どーした?」
屈んだままの従兄が、肩越しに僕を見て尋ねる。
「いや、何でさ」
「おう」
「
従兄は──露骨に怪訝な顔をした。
当り前だ。だって、主語が足りていない。
でも、この場合は咄嗟にわからなかったのだ。
ふさわしい主語が。誰の名前を当てはめるべきなのか。
従兄は後頭部を掻きながら、
「あー、俺の話?」
と勝手に解釈してくれたようだった。
「そりゃ大学ないし。大学行かなかったところで仕事もねえし。×××はどーなん? 出たいって思ったことねーの?」
「僕は──ないかな。今のところ」
そう言って、僕は持っていた石をそっと地面に戻した。
※
生徒会室に居残り、故意にたらたらと議事録を打っている。桐宇治さんや植木先輩と疎遠になってから、何となく放課後を持て余している。集中すればきっかり一時間で終わるだろう作業を故意にたらたらと進めているのはそのためだ。
心の中で溜息をつく。議事録の作成に嫌気が差したわけじゃない。情報のやりとりから要点を拾ってまとめるこの作業は、むしろ好きな方だ。やりがいだって感じている。そういう意味では、こういう機会を与えてくれた植木先輩に、僕は感謝しなければならないのだろう。
ただ、何というか。
自分を騙そうとしていることに気付いてしまったので。
これは──きっと錯覚だ。
桐宇治さんと植木先輩は別にして、少なくとも僕ら三人の間柄はそこまで深いものではなかった。三人で一緒に帰った日だって、流石に具体的な日数を憶えてはいないけれど、多分僕の全身の指を使えばカウントするに事足りる。休日にわざわざ約束して、顔を合わせるだなんてマネもしたことがなかった。
だから、あの二人と距離を置くようになってどうも最近ヒマだというのは、錯覚に過ぎない。つまるところ、これは僕のメンタル面に問題があるのであって。
ああ、この感覚。
これに何という名前をつけたらいいのか、その答えに今行き着いてしまった。
これはまさしく"胸にぽっかり穴が開いた"ような──。
「何かお困りごとですか?」
思いのほか近い位置から、降ってきた副会長の声で我に返る。
振り向けば、形の良い眉を幽かにひそめた副会長が、笑って良いものやら悪いやら、どうにも困ったふうな表情で、僕の向かっているノートパソコンのディスプレイを指差した。
──硬派な議事録の中に突如現れる"胸にぽっかり穴が開いた"というポエティックな一文。
一文字一文字を丁寧に削除してから、僕は再び副会長の方を向いて、
「悩みごとはありません」
と言い切った。
そうですか──という素っ気ない返事とは裏腹に、僕の傍へとパイプ椅子を運んで来て、腰を落ち着ける副会長。ええ、座ってしまうのか。
「私で良ければ相談に乗りますよ」
そう言って、副会長は十人中十人が微笑み返してしまいそうな、生徒会の次期トップに相応しい、ヨソ行きレベルカンストのスマイルを見せつけてくる。恐ろしいかな、語尾に疑問符は付いていなかった。
僕だって、こんな
──流石に、今の喩えは気色悪かったな。素直に反省しよう。
さて、こうなっては逃れられまい。ひとまず当たり障りのない、ふわっとした悩みを投げかけて、それで納得してもらおう。
そう、当たり障りのない、どうとでもとれる悩みごと。
──付き合っていたい。
「藤堂先輩は、どういうときにこの人のこと好きだなぁって思いますか」
言いながら、何故か僕はノートパソコンを閉じてしまった。
いや、普通に開けたままで良かったろ。どうしてこう軽率に"これから大事な話をするので真面目に聴いてくださいね"的な空気を作ってしまうんだ。僕は。
けど、字面だけならギリギリ単なる人間関係の悩み──ととれなくもないか。所謂恋バナとして受け取られさえしなければ、ワンチャン逃れようはある。
副会長は一瞬きょとんとしたあとで、少し照れたふうな笑みを零した。
「経験不足の私が、こんなことを言うのもお恥ずかしいのですが──」
駄目だ。ガッツリ色恋の悩みだと解釈されている。
「──少なくとも僕よりか多くを知っていると思います」
「思うに、相手のことを知りたいと感じたときではないでしょうか」
「ほう」
そう口走って、あっこのレスポンスマジで口癖なんだという事実に気付く。ただし、桐宇治さんと違って目の前の芍薬は破顔したりしない。いや、内心バカウケかもしれないけども。
「たとえば相手が友だちなら、表情や声の変化から、あっこの先は踏み込んでほしくないんだなと察したとき、ブレーキがかかるじゃないですか。でも、好きだと思った相手にはそれが──ないときがある。ここから先は踏み込んでほしくない。お互いのためにならない。そう、訴えかけてきてくれているのに、知りたいという気持ちがときに
「──成程」
字面だけだとどうにも信用に欠けるが、それは無難な相槌などではなかった。
心の底から、得心がいったことを意味する「成程」だった。
僕は、口許に拳を当てて考える。僕の桐宇治静さんに対する想いについて。
これまで理性のブレーキが利かなくなるほどに、彼女について知りたいと思ったことがあっただろうか。
確かに僕は今となってなお、あの日の"正解"を。元々あり得たかどうかもわからない適切な選択肢を今なお探して、物思いに耽ることがあるのだけれど。
これが、そうなのだろうか。
副会長の言う好きの枠組みにこれは、当てはまっているのだろうか。
「自論です」
ぴしゃりとそう言われて、我に返る。
副会長が心配そうな瞳でこちらを見つめている。
「今のは──自論ですから。無理にご自身の気持ちを当てはめようとはしないでくださいね」
返す言葉も見つからぬまま、頷くほかない。
真摯に答えてくれてありがたい反面、どこまでも見透かされていて、少し──怖くなった。
だからだろうか、身勝手ながらこの話題を一方的に打ち切りたくなってしまったのは。
「ありがとうございます。その──すごく為になりました」
頭を下げて、副会長から視線を切って、ノートパソコンを開く。議事録の中に他にもポエティックな異物混入がないかを探して──。
「平野君」
別段強い語気ではなかった。まして副会長は僕の視界に無理矢理入ってきたわけでもない。それでも、その一言は僕を振り向かせるだけの力があった。力ある言霊だった。
「これから言うことは、実に余計なお世話です。私もそれは承知の上です」
「──はい」
副会長は居住まいを正した(そうする前から十二分に背筋は凛と伸びていた)。一方で、瞳は若干揺れている。何かを──ためらっているように見えた。
「平野君は、植木先輩と桐宇治静さんの関係についてどこまでご存知ですか?」
それは──。
それは、僕が貴女に訊きたいくらいだ。
どうして二人のことを知ってるんです──そう、訊きそうになって、慌てて口を噤む。
植木先輩と副会長は学年こそ違えど、生徒会役員として僕より長い時間を共に過ごした仲だ。方向性こそ別だが、カリスマ性のある者同士通じる部分も少なからずあっただろう。そう、考えてみれば人望の厚い植木先輩の"善き相談相手"が僕だけであるはずがないのだ。
僕たち三人の関係は、僕たち三人しか知り得ない。
それは──酷い思い上がりだった。
「上手く──いってないんです?」
口にして、当たり前だろと思う。でなきゃ、こんな訊き方はしてこない。これで上手くいってるんだというなら、それこそ悪趣味だ。
副会長が、目を伏せた。黒髪を耳にかけた。貝殻細工みたいな耳が露わになって、言わずもがなそこにピアスの痕はなかった。そして、私から言えることがあるとすれば──とどこか苦し気な声で、前置きした。
「植木先輩は、多分平野君が思っている以上に人気者だということです」
人気者である先輩の好意をぽっと出の一年が
周囲は、先輩の取り巻きはどう思うのか。
全ては──副会長の態度が物語っている気がした。
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