第4話 ピアニッシモ・アリア・メンソール

彼女はとてもかっこよく煙草を吸う。

『喫む』という表現そのものだ。仕事がひと段落したところで、皮のケースから煙草を取り出すところからきまっている。お客さんが忘れていった、どこかのスナックのライターで火を付け、少しだけ目を細めて煙の行先を追う。

彼女はこのバーの店員で、私たちの憧れだ。

繁華街の片隅、狭い飲み屋が肩を寄せあうようにして並んだ通りにバーはあった。ここも例に漏れず狭くて、週末は常連たちがぎゅうぎゅうになってお酒を飲む。私が初めてこのお店に来た時は、店に入りきらない客が通りに出て立ち飲みをしていた。私は常連のひとり、佐藤さんの部下だった。初来店だからと私だけ椅子に座って、佐藤さんは私の後ろで立ち飲みをしていた。その時も彼女は美味しそうに煙草を吸っていた。

この通りでいちばんかっこよく煙草を吸うんじゃないか。彼女はお喋りで、明るくて、優しいけれど、煙草を吸ってる時だけ少し冷たい感じがする。態度が冷たいのではなくて、どこか憂いを含んでいるように見えるのだ。どんなことを考えているのか、一度だけ尋ねたことがあった。

「うーん、そうねえ。この街の行く末とか考えちゃうかな。あとは自分自身の今後とか」彼女は一息ついてから続ける。「このお店もだんだん卒業するかも」

「えー! やめちゃうんですか?さみしい」

「結婚もしたいし、自分のお店も持ちたいし。あ、オープンしたらミキちゃんも来てね」

「もちろん行きますよ!」

という会話をしたのが半年前。

彼女はまだここで働いているが、来年の三月には辞めて自分のお店を開くという。今日は、新店舗の物件を見てきたそうだ。

「もう本当に良いところ。路面店ではないけどここよりも少し広くて、テーブルも置けるの」

「良いですねえ。早く行きたいなあ」

「近いんだからいつでもいらっしゃい」

入り口の重い扉が開いて、顔なじみの常連が入ってくる。彼は確か、斉木さんといったか。

「こんばんは。いらっしゃい」彼女は煙草を消して手を洗う。「今日は早いね」

「最近暇なんだ。年末前の一休みってところかな」

斉木さんがこちらを見て、軽く会釈したので、わたしも「こんばんは」と返した。

「あれ、今日はお休みなの?佐藤さんと一緒じゃないんだ」

「仕事、先月に辞めたんです」

「ついに独立?」

「まあ、そんなところですが、今はゆっくり期間でして」

私は先月、仕事を辞めてから、一ヶ月分に貯まった有給を消化している。この間は仕事をせず、休もうと思っていた。来週からはフリーランスとして動く予定だ。

「あ、僕はいつものソーダ割りください」

斉木さんのいつもの、とは焼酎のソーダ割りである。彼女は背後の棚から斉木さんのボトルを取り出し、お酒を作り始めた。

「じゃあ、ミキちゃんの独立祝いってことで、ゆう子さんも乾杯しよう」

「あら、いいの?じゃ、私もソーダ割り」彼女はもう一つグラスを用意した。

カラカラとグラスの中で氷を回して、焼酎をきっかり四十五ミリ注ぐ。ソーダを静かに入れ、ゆっくりと混ぜる。いつ見ても鮮やかだ。

「はい、お待たせ」彼女は斉木さんの前にグラスを差し出した。「じゃ、ミキちゃん。これから大変だろうけど、私の個人事業主の先輩として頑張ってね!」

「先輩って」私は思わず苦笑した。「頑張ります!」

「乾杯!」

斉木さんと、彼女と私のグラスが音を立てた。

「新店舗、どんな感じなの?」

斉木さんが尋ねると、彼女はさっきの話をまた繰り返した。三月に本開店で、二月の終わりにはプレオープンして、常連のお客を招待するという。

「三日間ぐらいやるつもりだから、二人とも来てね」

「もちろん。シャンパン用意しておいてね」

「わ、私も、シャンパン入れたいな! 初めて入れるな〜」

私はまだ、自分のお金でシャンパンを飲んだことがない。いろいろなパーティや宴席でいただいたことはある。その度に、どうしてわざわざ高いものを頼むのだろう、と思っていた。お祝いとして慣習化されているだけで、あまり美味しいものでもないのに。

でも今は、少しその気持ちがわかる。この街で飲み歩くようになって、お店へのお祝いなら良いか、と折り合いをつけられるようになっていた。

「ミキちゃんまで……嬉しい。いいの? 初めてはもっと特別な時にとっておいたら?」

「いいんです。私、フリーになって初めての報酬はこれに使おうと思っていて」

「良い子だよな、ミキちゃんって」斉木さんがこちらに顔を向けた。「俺ももう少し若かったら、口説いてたかも」

「やだもう、斉木さんったら。この店では手を出さないでよ!」

彼女は斉木さんを嗜め、笑った。

この日はそれから何杯かのハイボールとレモンサワーを飲んだ。とても楽しい夜だった。

三ヶ月が経ち、彼女のお店が開店した。私はプレオープンの日にシャンパンを頼んだ。初めてもらった報酬の三分の二の値段だった。その日は他にも前の店からの常連がいて、十本以上のシャンパンが空いていたと思う。そのうちの一本に過ぎないけれど、私にとっては大事な一本だ。今まで飲んだシャンパンの中で、一番美味しかった。良い経験になったと思う。


あれから三年が経った。

仕事が順調に軌道に乗り、飲み歩く回数も減ってきた頃、久しぶりにまた彼女の店に行ってみる気になった。もう半年くらい顔を出していなかったのではないか。それだけ仕事に忙殺されていたのだ。今日は珍しく夕方に仕事が終わり、明日も休みだし、急いで片つける仕事も無い。まだ夕日が沈む前だったが、たまにはこういうふうに休むのも良いだろう。心の休息である。

「いらっしゃいませ」

扉を開けると、カウンターから見知らぬ顔に挨拶された。若い女の子だった。

店の中には他に誰もいない。

「あれ、ママは?」

「ママは今日はおやすみです。私、新しくバイトで入った風花です。よろしくお願いします」

風花ちゃんは、会釈をし、おしぼりとコースターをカウンターに並べた。顔立ちが整っているわけではないが、不思議と愛嬌のある顔だ。

「そうなんだ。私はミキです。よろしく。なんか久々に来たらいろいろ変わっているね」

私は椅子に腰掛ける。おしぼりで手を拭いて、ハイボールを注文した。

「ミキさんは前のお店からの常連さんなんですか?」

「そうなの。ここしばらくは忙しくてなかなか顔出してなかったけど、ここがオープンしてからは毎週来てたなあ」

私の前にハイボールが差し出される。

一口飲んだ。ママが作るものと、少しだけ味が違った。風花ちゃんが作るハイボールは優しい味がした。

「やっぱり、まだまだママの味にはなってないんですかねえ」

風花ちゃんがため息混じりに呟いた。

「うーん。違うけど、美味しいから良いんじゃない?」

「ありがとうございます! 嬉しい!」

「風花ちゃんもなんか飲みなよ」

「いいんですか?ありがとうございます」

そう言って彼女はレモンサワーを作り始める。鮮やかな手つきだが、どことなく危なっかしい。

私たち二人は乾杯をして、お互いについて話した。

風花ちゃんはママの知り合いの妹さんで、以前は西東京で事務員をしていたそうだ。新卒で入社したその会社がひどい労働環境だった。一年ほどで体調を崩し、退社して仕事を探していたところ、このお店を紹介してもらったのだという。

「そうそう、今日、ママは新店舗の下見に行くからお休みなんですよ」

「えっ。またオープンするの?」

「はい。夏ぐらいには開けたいなって言ってました」

「もうすぐじゃない。すごいなあ」

「新しいとこはたしか三丁目の方なんです」

「あっちの方かあ。サラリーマンとかが多そうだね。帰りに軽く飲む感じかな」

私は上着のポケットから煙草を取り出そうとした。しかしどのポケットにも無い。鞄の中も探してみたがライターしか出てこなかった。

しまった。

たぶん、今日の現場の喫煙室に忘れてきたのだろう。


「あ、もしかして煙草ですか? 良かったらどうぞ」

風花ちゃんが革のケースから一本取り出した。ありがたく受け取る。

「あれ、これもしかしてママのじゃない?」

この革のケースには見覚えがある。中身も以前ママが吸っていたピアニッシモである。

「忘れていったみたいです。あとで補充しとくんで、どうぞ」

「なんか悪いね。私があとで買ってくるよ」

私はピアニッシモに火をつけた。

あの小さな店に、いつも漂っていた匂いがした。

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