紫煙
やさぐれないで
第1話 アメリカンスピリット ライト
目が覚めると雨の音が聞こえた。10月だというのに随分と元気な降りかたをしている。カーテンの隙間から外を覗くと、黄色い傘が三つ並んで揺れている。近所の小学生たちは下校時間のようである。今日もまたこんな時間まで寝ていたのかと、ため息をついた。
しばらく空中を見つめてから起き上がり、キッチンに向かう。薬缶で湯をたててカップにドリッパーを乗せる。換気扇を回してから食器棚にある煙草を取り出す。コート掛けに掛かったマウンテンパーカーからライターを取り出して火を付ける。ここまでが数ヶ月前からの朝の日課だ。
こんな時間に起きてゆっくりしてしまうのは無職になったからだ。前職は営業をしていた。毎朝6時には起きて、一服もせず家を出ていた。駅前のコンビニのコーヒーを買っていた。あれはあれで美味しかった。
コーヒーの缶を開けると、ある朝、会社の喫煙所であった事を思い出す。匂いはいろいろな記憶を蘇らせる。
北側に窓があり、残り三面は壁かドアの四畳半の部屋だった。テーブル型の換気システムの上にコンビニコーヒーを置き、スマホを見ながら一服をしていた。業務時間前のため人が多く、部屋は白く烟っている。
ここが火事になっても誰も気づかないのではないか。そんな事を考えながらあてもなくSNSを眺めていた。
「おい」左隣の男が向かい側の男に話しかけた。「吸うんだっけか」
「部長とか先輩たちみんな吸っているので、僕もタバコミュニケーションしたくて」
向かいの男はこの春入社したのだろうか。どことなく垢抜けず、新卒らしい見た目だ。
隣の男は上司か先輩なのだろう。自分と同じく二十代後半のようだ。
「そんないいもんじゃないぞ。今のうちにやめておけ」男が嗜める。「ていうか、また珍しいの吸ってんなあ」
「そうなんですか?」新卒は自身の煙草を一瞥した。「友達もこれ吸ってて、なんとなくかっこいい見た目だなって思って」
新卒の煙草は自分と同じ銘柄の軽いものだった。たしかに、パッケージはかっこいいほうだ。雑貨のような色合いでお洒落だと思う。
「そういうちょっと珍しい煙草はな、これからどんどん買えなくなるぞ」隣の男が言う。「俺が前吸ってたのも廃番になったし」
「えー。だったら僕も先輩と同じのにします」新卒は顔をしかめて言った。
俺はそう簡単に無くならないと思う。
確かに、コンビニでも煙草を置かない店舗が増えている。しかも愛煙者が少ない煙草は廃盤になってきている。銘柄を統合して数を減らしているものもある。
しかしアメリカンスピリットは界隈によっては根強い人気があるのだ。学生時代にライブハウスでバイトをしていたときは、喫煙者の七割がアメリカンスピリットだった。隣の男はよく見るといいスーツを着ている。いままでああいう世界とは無縁だったようだ。彼の発言は偏見混じりだが、自分の思考もまた偏見が混ざっていることに気づいて気分が沈んだ。本当はもっといろんな物差しで世界を見たいのだ。
あの朝から数ヶ月後。値上がりや一部の銘柄廃止のニュースがあったが、これはなくならないようだ。値段は相変わらず他と比べて高い。そして相変わらず同じものを吸っている。
今日も特別な予定はないが、煙草が切れたので買いに行かなければならない。最寄りのコンビニは取り扱いがないので、商店街の煙草屋に行く。雨が止んでるといいのだが。
ふと、窓の外に目を向けると、道路の向こうで小学生たちがまだ歩いていた。あの傘の色は、俺の煙草によく似ている。
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