第2話 メビウス

 業務終了後の一服は至福である。

 二宮真二は残業を終え、喫煙所へ向かった。商社ビルの一角にあるそこは、北側に大きな窓がある。道路を挟んで正面のビルもまた商社ビルで、こんな時間だというのにまだ数部屋の照明が灯っている。あと少しで終電に間に合わなくなる。乗り換えがある者はもう帰れないかもしれない。かくいう二宮もまた、終電を逃してしまったのである。

 そもそも、こんなに遅くなってしまったのは上司のせいだ。課長がネットの繋がらない場所に出張したため、主任である自分が提出された書類を確認しなければならないのだ。通常業務の倍の仕事量だ。

 喫煙所に来てから二本目の煙草に火をつける。大きく吸い込んでから、鬱憤と疲労が乗った煙を吐いた。他人からはため息のように見えるだろう。喫煙所にはもう誰も居ないのだが。

 ふと、向かいのビルへと視線が動いた。新しく照明が点いた。その部屋もまた喫煙所のようだ。間に片側二車線の道路を挟むが、視力は良い方なので、そこに居る人物も確認できた。背の高い男で通勤中よく見る顔だ。いつもスーツの上にアウトドアジャケットを羽織り、リュックを背負っている。自宅の最寄り駅までは自転車で来ているのかもしれない。ぼんやりと想像しながら見ていたら目があった気がして、会釈をしてみる。あちらもまた、頭を頷くように下げた。


 帰り支度を終え、通用口から出る。守衛室の前の機械に社員証をかざした。守衛室からはテレビの音が漏れていた。深夜のニュースだろう。

 外はひんやりと湿っていた。この辺りは川が近いからか、夜は冷えるのだ。俺は、もう一枚着込めばよかった、と後悔した。ジャケットのボタンを留め直してみたが、あまり効果がない。

 もしかしたらあの向かいの喫煙所の男は、毎晩この時間まで仕事をするから、アウトドアジャケットを着ているのかもしれない。俺も今度から残業の時はああいう羽織を持ってこよう。

 そんなことを考えながら、歩いた。

 静かなオフィス街を抜け、駅近くのコンビニへ入る。今日はもうこの辺りのネットカフェに泊まってしまおうかと考えていた。三十路間近には少々きついが、自宅までのタクシー代を払うよりかはマシに思える。会社が負担してくれるが、現金が無くなるのも、領収書を提出するのも面倒なのだ。それに、家に帰っても誰も居ないのだし。


 コンビニには数名の客がいた。タクシーの運転手や、作業員のような男も居る。そういえば、駅構内で工事をしていたな、と思い出す。彼らはこれから働くのか、それとも休憩時間なのだろう。対照的に、スーツを着たサラリーマンは皆疲れた顔をしていた。

 缶ビールを一本と、弁当、スティックチーズを籠に入れる。外国生まれであろう店員は流暢な発音で接客していた。中東風の顔をした若い男で、まだ十代、二十歳くらいだろうか。その青年は夜更けなど気にしないかのようにハツラツとしている。

「いらっしゃいませ」青年は商品のバーコードを読んでいく。「お弁当はあたためますか」

「いや、いいよ」俺は手を振りながら答える。

 これは温めなくて良いという意味のジェスチャであって、この青年との間にある見えない壁を拭いたわけではない。

「あ、あと煙草の」俺は首を突き出し、カウンターの奥にある棚から青いパッケージを探す。水色や青色がグラデーションに並んだコーナーから一番濃い色の番号を確認した。「5番ください」

「こちらですか?」青年は棚からメビウスを取り出す。

 俺は頷き、親指で天井を指す仕草をした。

「ではお会計は千百五円です」

「スマホで払います」最近、キャッシュレスというものを始めたので使ってみる。後輩に教えてもらいながら、登録したのだ。

 スマホの画面に表示されたバーコードを読んでもらうと、電子音が鳴った。無事に支払われたようだ。

「ありがとうございました」店員はにこやかな顔で頭を下げる。日本人より日本人らしいお辞儀の仕方であった。

「どうもね」

 俺も釣られて頭を下げる。なんだか知らないが、口角が上がっている気がした。


 コンビニを出て角を右に曲がり、ネットカフェがある雑居ビルに入った。エレベータに乗り四階のボタンを押す。上昇すると、途中から入り口の正面がガラス張りになった。窓の外に高速道路の明かりが見えた。弧を描いて走る照明と、その下を流れるヘッドライトは、まるで流れ星のようだ。

 ああやって、都会の夜空を明るく照らすことが、本当に良いことかはわからない。エネルギー問題、光害、いろいろあるだろう。けれど俺は、あの明かりが誰のためにあるかを知っている。この街を人知れず支えるあの人達のために光っているのだ。


 今夜は俺のためでもあってくれ。

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