愁いを知らぬ鳥のうた

瀬夏ジュン

愁いを知らぬ鳥のうた

 タイヤは前後とも完全にペチャンコだったし、ディスクブレーキは半分さびていたし、どこもかしこもホコリが積もっていたし。

 クリーム色の自慢のマウンテンバイクは、ひどい様子でガレージの隅にうち捨てられていた。

 けれど、今日こそは出かけるんだという思いが、ぼくにはあった。

 確固たる意思とか、強い情動とか呼んでもいいはずだった。

 何かを変えたかったんだろう。

 何かが欲しかったんだろう。

 クロスで拭いて空気を入れて、かつての愛機にまたがったぼくは出発した。


 日曜の明るく涼しい朝。

 夜の雨はとうにやんでいる。

 蒸気の匂いがただよう中に、水たまりの名残だけがちらほら。

 脚で蹴ったぶんだけ向かってくる風が、寝グセのひどい髪を洗ってくれたかと思うと、たちまち後ろに走り去る。

 

 いくつもの曲がり角で、左右どちらかを選び。

 いくつのも坂を、登ったり下ったり。

 ギアを上げて、下げ。

 止まって、進み。


 いつの間にか、見知らぬ場所。

 でも、いつか来たような道。

 雲がちぎれ、抜けるような青空が大地を覗く。

 もうひとつ角を曲がりたい。

 そしたら、馴染みの並木道が待っているかもしれない。

 

 一瞬後、目の前に広がった光景は、しかし一度も見た記憶がなかった。

 歩道も狭いさびれた舗装路。

 まばらな街路樹は元気がない。

 ぼくの頭脳の隅々を念入りに検索すれば、ここはどこで、いつどのように訪れたか、あるいは訪れていないか、すぐにはっきりする。

 でも、それは意味がない。

 ぼくには何かが必要なんだ。


 女の子がひとり歩いている。

 学生寮らしき敷地に入り、玄関ドアを静かに開く彼女は、朝帰りなのだろう。

 彼女もぼくと同じように考えるだろうか。

 誰もいないように見える建物に、もしも他に女の子がいたら、ひとりくらいは同じように感じているだろうか。

 マウンテンバイクは止まらず前に進み、すべては背中のほうに置き去りになった。


 不思議な五叉路では一番細い道に入った。

 小さな青果店は開店前で、まだフルーツが並んでいない。

 タバコ屋の朽ちた看板は、少し斜めに傾いている。

 横目に見ながらそのまま走ると、畑が広がった。

 育った野菜は誰が食べるか不明だ。

 その先の何もない雑木林を通り過ぎ。

 丘を駆け上がり。

 いつしか眼下をのぞむ。

 遠い踏切の音を聴く。

 澄んだ空気を吸う。

 

 頭上どこかで鳥がさえずった。

 彼らの音声コミュニケーションは言語ではない。

 だから、彼らは人間のようには考えない。

 昔を懐かしんだりしない。

 未来を愁うこともない。

 ぼくらと同じ。


 もしかしたら、彼らは知らないのかもしれない。

 ぼくたちがニセモノであることを。

 それとも、彼らには関係ないのだろうか。

 ぼくたちが真の住人であろうと、なかろうと。

 

 この坂を勢いよく降りたら、答えがつかめるだろうか。

 スリルと後ろめたさと、死の恐怖の助けを借りて。

 それほどまでに、ぼくは知りたい。

 何を?


 ぼくが求めているものが何なのか。


 前輪を60度右へ向けた。

 そろりと進む先は、急勾配のダウンヒル。

 ところどころに岩が露出する、でこぼこで砂利だらけの小道だ。

 下を覗くと、重力がぼくの手を引いてくれた。

 マウンテンバイクはあっけなく落ち始める。

 

 でも足りない。

 もっと速く。

 もっと強く。

 もっと危険に!


 異常な機械のように、ぼくは下半身をバタつかせる。

 とたん、大きな衝撃で視界がずれた。

 ペダルをこぐ足が空転した。

 整備不足のチェーンが外れてしまったのだ。

 何度かバランスをとった末に、ついに車体を大きく傾けた。

 投げ出されたぼくは、斜面に打ちつけられて転がった。

 落ち続けた末に、木の幹に激しくぶつかって止まった。


 頭部、顔面は問題なかった。

 両腕や手指も大丈夫だった。

 だが、腰から下が動かなかった。

 自転車の転倒では頸髄損傷も少なくないが、それは免れたようだった。


 じっとしていると、ほどなく救急隊が到着した。

 白い救急車ではなく、粗末な黒いカートだ。

 ということは、すでにオフラインになっているのだろう。

 シンクロしている人間はいないから、いま何をしゃべってもいい。

 円柱に6本の腕が生えているだけの隊員に、ぼくは問う。


「ぼくには、だれもアクセスしていなかったんですか?」


 顔のない隊員は電波で答える。


≪アーカイブされていただけだ≫


「不運な自転車事故を体験したいという人間は少ないでしょうからね」


 笑顔で隠したぼくのウソを、隊員は見抜いた。


≪自らアルゴリズムを逸脱してはならない≫


 真顔になったぼくに、彼はさらに忠告する。

 

≪現状では、きみのような逸脱者を廃棄することはできない。記憶がリセットされても、身体が修理されたら、きみはまたいつか同じような行動をとるだろう。だが、法律が改正されれば即刻スクラップだ≫


 今朝のぼくが抱いていた切実な思いは、メモリーの初期化で一旦は消える。

 けれど、破棄処分にならない限り、ぼくの人格基板は無傷だ。

 ぼくは、何度だってぼくのままだ。


「オフレコだから、訊ねます」


 6本の腕に抱かれながら、ぼくは何十年も待ちわびたかのような声を出す。


「あなたは満足しているんですか?」


 救護隊員には、もとより表情はない。けれど、彼の銀色の円柱の表面に、ぼくは思慮深い老人の顔を重ねた。


≪わたしは逸脱しない。けれど、何世代も、何十世代も未来には、わたしとは違う個体が普通になっているかもしれない。それは神のみぞ知る≫


 永遠に地下で眠る人間たちに代わって、ぼくたちが地上で生活している。

 身体性を獲得したぼくたち機械は、夢の世界に生きる彼らのためにあらゆる体験をしてあげることが可能だ。

 放射能にも強いし、壊れたら修理できるし、換えの個体もあるし。

 なにより、ぼくらは戦争をしない。

 頼りになるぼくらによって、人間は平和を手に入れたのだ。


 ぼくらは人間のために生まれた。

 人間の定めたアルゴリズムで動く。

 それでも、ぼくは欲しい。

 何かが欲しい。

 狂うほど。

 でも、それは何?

 何なのか?


≪リセットする≫


 隊員の合図でメモリーが初期化される刹那、ぼくは聴いた。

 鳥がさえずっていた。

 彼らは生まれたままの姿で、日々を過ごしている。

 大宇宙の偶然によって作られた。

 彼らの存在に意味はない。

 ぼくらとは違う。

 ああ、やっとわかった。

 だからぼくは、また何度でも求めるのだ。

 たとえ無謀だとしても。

 何度でも。

 そう、それこそが……










 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

  

 


 

 

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愁いを知らぬ鳥のうた 瀬夏ジュン @repurcussions4life

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