終を迎えた世界で
天使はひとり
「なあ、ニコル」
冬の日だった。吐く息が白いので、寒いのだと分かる。私の体は寒さ・冷たさを感じるには感じるのだが、身体機能に影響が及ぶことはなく、暖を取りたいと思うことがない。
一方人間は、これがひどく堪えるのだという。綿のシャツの上に分厚いセーターを着る。必要なら、セーターの下にもう一、二枚。外出時には、さらにダウンジャケットを羽織り、首にマフラーを巻き、手袋をつける。毛糸の帽子をかぶったり、耳あてをすることもある。まさに布の塊だ。この環境に暮らしていながら、ここまで環境を拒絶する生き物も珍しい。自然を受け入れられないのか、もしくは自然に受け入れられていないのか。
だが、それが面白くもある。環境に適応できないからこそ、人間はその環境に居座るための工夫をする。布をたくさん身に纏うのも――間抜けで不格好であるが――その工夫の一つなのだろう。……見た目が寒いからと、必要のない私にまでその格好を強制するのは、少しばかり窮屈ではあるけれど。
さて、それはともかく同居人だ。出掛ける、と言っておきながら、一向に出てこない。呼びかけても返事はなく、開け放した玄関を覗き込んでも影すら見当たらなかった。着ぶくれてダルマになった姿を笑ったのは、ついさっき。忘れ物をしたと自室に戻っていったのを見送り、室内で待つよりは、と思って外に出た。重い金属のドアを開け放したままにしたのはすぐに来ると思ったから。普段このようなことをすると、部屋の温度が下がる、と苦情を受ける。
……そういえば、その苦情も飛んでこない。
空から落ちた
何をしているのだろうか。待ちぼうけていても仕方がないので、室内に引き返す。
ヒト一人しか通れない板張りの通路。ニコルの部屋は、玄関からほんの数歩で辿り着く。その間、なんだか妙な気分だった。高揚するような、胸が締め付けられるような。前者はともかく、後者はあまり体験したことがない新鮮な〝気分〟だった。
ぴん、と音が鳴りそうなほど張った空気。
しん、と静まりかえった室内。
何処か夢心地の覚束なさで、薄く開いていたドアを押す。
「ニコル?」
蝶番の軋む音が、いやに大きく響く。
中には誰もいなかった。ベッドと本棚とクローゼット、それから書き物机だけが置かれた部屋。床の隅に書物が丁寧に置かれていて、いい加減なんだか律儀なんだかよくわからない持ち主の性質がよく見える。書き物机のには、先程ニコルが着けていた手袋と口が開いた鞄、そしていつもニコルがなにやら書き込んでいるノートが置かれていた。
少し首を傾げたが、すぐに部屋を出た。廊下を進み、リビングへ。部屋に通じる扉を開け、中を覗き込んだ。
素っ気ないダイニングテーブル。小さな食器棚。唸り声をあげる大きめの冷蔵庫。キッチンに併設されたダイニングスペース。奥側のリビングに立ち入るまでもなく、私の足は止まった。
目にしたものを前に、浅く息を吸い、ゆっくりと吐きだす。
そうして、私――アンジェリカは、ニコルを捜すのを止めた。
脇に抱えていた画材の入った鞄をダイニングテーブルに置く。その小さな音が虚しく響くのを聴きながら、瞑目した。
すべて、終わってしまったのだ。
―――――
天は、私の居場所だった。
今は、憧れの場所だった。
私にとって、天はそれ以上でも以下でもなかった。安心して、懐かしくて、遠くても近くて、帰りたい場所。この感覚を抱く場所のことを、人間は故郷と呼ぶのだそうだ。これは、住まいを出ることのなかった我らにはなかった概念だ。
いつからか天が地上に引っ張られるように墜ちはじめ、私たち天使もまた、地上に引っ張られるように落ちてしまった。
地上に落ちた後の私は、一人の人間に拾われた。ニコル・アランという名の人間だ。私をアンジェリカと呼び、共に暮らすことを提案した。〝行き場を失くした〟私はその提案に乗り、ニコルと共に人間の生活を楽しんだ。
ニコルの既存の物質を分解し、新しい物質を作る試みを観察したり、各地を回って見たり。
絵を描いてみたり、物を食してみたり。
人々の祈りを目にし、小鳥の歌に耳を傾け、手の中の温もりを握りしめ。
この〝人〟の生活に、私は結構満足していたように思う。天使のままでは得られない経験、感情。凪いでいた水面に滴り落ちた雫が波紋を作って広がるように、我が胸の内を小さく揺さぶるのが気持ちよかった。
けれど、それももう、終わってしまった。
空気中の粒子が凍てつくような冷たさの中で、遺された文明の産物が音と共に湯気を立てる。
ガスコンロからやかんを下ろし、厚みのあるマグカップに熱湯を注いだ。中に入ったティーバッグから、濃赤の
ティーバッグの紐を揺すってお湯を掻き混ぜて、水色が均等になった紅茶に口つける。出し過ぎたのか、ただでさえ深い渋みのある茶葉なのに、ますます渋くなって少し飲みにくい。ミルクを入れるか少し迷って、止めた。慣れたこの味を楽しむことにする。
はじめてニコルと会った日も、紅茶を飲んだ。そのときは珍しさばかりが占めて、味がどうだったかなど記憶にない。その後、何度も口にするようになって、ようやく味を覚えた。銘柄の違いも。ただ、ニコルは茶を淹れる時間には少々無頓着で、渋いものばかりを頻繁に作りだしていたけれど。
半分に減ったカップを揺らす。人肌に冷めた液の縁、真っ白な内側に染みついた茶渋が目立った。私専用だったマグカップ。漂白をしているところを見たことがないので、染みついた汚れは私がここで暮らした月日分。斑な茶色があまりに美しくないものだから、少しばかり腹が立った。
中身を一気に煽り、流しへ向かう。流し台の下から漂白剤のスプレーを取り出し、カップの中に吹きかけた。泡が万遍に行き渡るように念入りに。しばらくして塩素の刺激臭が漂いはじめたので換気扇を回す。低く大きな唸り声に顔を顰めながら、カップを放置して、私は私の自室に向かった。
リビングの横の引き戸を開けた先。眠るためのベッドと小さめのクローゼットだけが置かれ、壁には今まで描いた絵のうちの何枚かがマスキングテープで貼られている。はじめて描いた絵は〝人喰い花〟。最近は〝歪んだレンズ越しの公園〟だったか。私の絵を酷評する同居人は、しかし不思議と絵を捨てさせるようなことは言わなかった。こうして壁に貼りつけたものを、時折微笑ましいもののように眺めたこともあった気がする。
合板のクローゼットを開く。水色のワンピースと白いケープがプラスチックのハンガーにかけられていた。その横に掛けられた白いローブに手を伸ばす。地上に降りてからというもの、纏うことのなかった私の一張羅。とうとう、これに袖を通す時が来た。
脱いだニットとジーンズを、綺麗に畳んでベッドの上へ。頭頂部の黒いヘアゴムを外した途端、金髪が広がると同時に頭が軽くなった。
ヘアゴムを放り投げ、流しでマグカップの泡を洗い流した。人間の皮膚を侵食するアルカリ液も、天使の手を痛めることはない。既に冷水を浴びながらカップを擦り、中を覗き込む。
カップの底は新品のように白く輝いていた。けれど飲み口側は汚れが落としきれていない。薄くはなっているのかもしれないが、ところどころ走る白い筋が汚れを際立たせてしまっている。地上での生活の月日分の付着は、そう簡単には落とせないものらしい。
「まあ、仕方ない、か」
二度目の漂白は諦めて、水切り籠にカップを置いた。水を止め、換気扇を止めると、凍てつくような静寂がまた部屋の中を支配する。
そこでしばし足を止めてしまうのは、如何なる心境か。
無意味と知りつつ部屋を見回してしまうのは、いったいどういう理由だろうか。
私は、自分のことが解らないという初めての事態に戸惑いながら、窓際まで歩いていった。空っぽの籐の椅子。ここでニコルが頻繁にふんぞり返っていたのを思い出す。今もその残滓が染みついているような気がした。
「世話になったな」
踵を返し、リビングを出る。扉を開けると、冷たい空気が動いた。玄関を開け放したままであったことを思い出す。怒らない人間がいないと、調子が狂う。
けれど、玄関はまだそのままにして、もう一度ニコルの部屋に入った。机の上に置かれているノートがずっと気になっていた。
それは、私がある化学者と共に過ごした日々の記録。
罫線に沿って書き込まれた、世界の終わりに直面する一人の人間の想いの集積だった。
希望に裏切られ、絶望を乗り越えて、平穏を願ったニコルの最後の希望を胸に抱え、私は今度こそ玄関の外に出た。
飛ぶ機能を失っていた天使の羽根が、解れていくように伸びていく。今なら飛べるという確信。ここはもう、天使の飛ぶ場所だ。
白い雪が祝福のように降り注いでいる街の景色の向こうに、ひしゃげて倒れた天の柱が見える。世界はまるで水底に沈んだように静かで、清々しさと冷たさが胸の奥を満たしていった。
世界の終わりは呆気なく、予想に反してしめやかだった。
その事実をただ一人、私だけが見つめている。
「置いていくのは、私のほうだったな」
踵を返し、玄関を未練がましく覗き込む。室内は薄暗さを湛えるだけで、ヒトが現れる気配はない。しても意味のない期待をした自分の虚しさに嘆息しながら、ドアノブに手を掛けた。
「左様なら」
そうして私は、ニコルの家の扉を閉めた。
天の墜ちる世界で 森陰五十鈴 @morisuzu
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