夕凪に燃える世界

 黄昏は、いつも終わりを思わせる。

 日が暮れても夜があり、それは一日のおよそ半分を占めているのでまだまだ続いていくのだが、夜の到来を〝終わり〟と連想してしまうのは、やはり人間が日の光の下で生きる生き物だからなのだろうか。化学光が街を覆っても人間は太陽を未だに求める。太陽のほうも意地を張って化学光よりも優位に立とうとする。四十億年の年の功に技術の進歩は敵わない。

 その日の夕方は、ひどく静かだった。風はぴたりと止んでいて、往来を行く人は今日に限って息を潜めている。街を赤々と染める太陽の不興を買うまいと怯えているかのようだった。

 それとも、今日がとうとう世界の終わる日なのだと、誰か告げたりしたのだろうか。

 嵐の前の静けさ、という言葉が頭を過る。平穏と不穏の均衡に、心は息を潜めている。

 空を見上げる。地上へ近づいているはずの天は、相変わらず何処にあるのか判らない。迫っているのか、遠ざかっているのか、もしかすると墜落なんてしてもいないのか。期待も絶望も素知らぬ顔で、ただそこにある。

 世界は終わらずとも、光ある一日は終わる。東端は既に藍色。

 視界の端で金色が私の気を引いた。頭頂部で一つに纏めたポニーテール。

「どうかしたのか?」

 地に墜ちた天使が不思議そうに首を傾げている。この静けさをどうとも思っていないらしい。至って普段通りの彼女、アンジェリカ。

「……いいや」

 返す言葉が思いつかなくて、頭を振る。少し感傷的になっているのだろう。夕焼けにはそういう力がある。黄昏時は逢う魔が時ともいう。今、私は悪魔の誘惑に乗せられそうになっているのかもしれない。絶望という誘惑。自らを嘆くのは、実は甘美なものであったりする。いつかの誰かを笑えない。油断すれば、いつでもそこに転がり落ちてしまう。それを、傍らの天使がそれを引き留めてくれたのだろうか。

 ……やはり、何処かおかしい。取り留めのないことばかりが思い浮かぶ。

 胸が苦しい、気がする。

「少し休んでいくか?」

 疲れているとでも思ったのだろうか。アンジェリカは心配そうな目で見上げてくる。そうではなかったが、私は提案を受け入れることにした。もう少し黄昏に酔っていたい。現実を受け入れ、かつ抗うというのは、希望をほとんど失ったこの世界では苦行だ。少しばかり逃避もしたくなる。

 そう、少しだけ。足を止めてみよう。

 高台の公園のベンチ。そこに腰を下ろしアンジェリカに財布を渡すと、彼女は温かいミルクティーを二つ買ってきた。白い羽根を持つ天使が自動販売機の前に立つ光景は、だいぶ見慣れてきたとはいえ、何とも言い難い気分になる。微笑ましいような、珍妙なものを見たような。とりあえず、彼女のいた世界にあんなものはなければ良いと思う。

 スチール缶から伝わる熱は火傷しそうなほど熱いくせに、何故か手放しがたい。いつの間にかもうそんな季節。天使の衣装は水色のワンピースからニットとジーパンに替わり、同じような服装をした人間は、さらにその上にコートを羽織る。今はまだそれで事足りるが、そのうちマフラーや手袋が必要となるだろう。ニットの下も、一枚ではきっと足りない。庶民派で知られるブランドが開発した、薄くも温かいインナーは今年も発売されているだろうか。だとしたら早めに買わなければ。

 これから来る寒さに憂鬱になるのが常だったが、今はそれが待ち遠しくあった。

 ――おそらく、我々は次の春を迎えることができない。

 夕焼けに照らされた街並みは、まるで燃えているようだった。世界が燃える光景を見下ろしながら、プルタブを開ける。近い未来の終焉は、きっとこんな風には終わらない。ああ、でも空を走る天柱の枝葉が落ちたなら、このような光景になるのだろうか。そう思うと、あの無骨な建造物が物騒に見えてくる。最近では、あの枝が折れたなどという話は珍しくもない。むしろ柱の天辺てっぺんがひしゃげたという話も聞く。人類の叡知と技術の結晶は、結局天を支えることはできなかった。ここが人間の限界なのだと知る。

「今日は、何を描いたんだ?」

 街から目を反らし、アンジェリカに尋ねる。今日の日中、私はいつものように科学教室で子供達の相手をしていた。アンジェリカのほうは、画材を持って一人街を遊び歩いていたらしい。帰りに行き合って、現在に至る。

 アンジェリカは少し顔をしかめながら、渋々といった様子でスケッチブックを捲る。彼女は、私に絵を見せる度に、私が笑い出すのではないかと心配している。申し訳なく思うのだが、どうしても堪えきれなくなることも未だある。天は一人に二物以上のものを与えるが、寵愛していても与えないものもあるようだ。それは大概、当人にとって不本意なことに。

 白い画用紙に色鉛筆で塗られた公園。今、唯一赤く染まらない風景が私の心を捕らえた。歪んだレンズ越しの風景を写し描いたのだとでも言われないと納得できないような、遠近法もまるで無視されている作品だが、紛れもなく私が暮らした街の一角だ。少しばかり歪んでいても、天使の目には変わらずかつての街が見えているらしい。日常が続いていることに安堵した。

 最近、世界の終わりをよく考える。はじめのうちは、それは不穏なニュースが飛び交う所為だと思っていた。実際は違っていて、本能で生の終わりを感じ取っているのではないかと思う。私だけではない。きっと、世界中の人々皆が、自覚の有無はさておき、感じ取っているはずだ。それが、今までとうって変わったこの静けさの理由。

 どんな風に終わるのだろう。

 どんな風に死ぬのだろう。

 いくら想像しても、その絶望的な映像が浮かんでこない。悲観的にならなくて良いが、現実逃避をしたくなるので、些か困っている。

「何処が変なんだ」

 絵を見つめたまま思いに耽ったのがいけなかったのだろう。傍らの天使の、低く不機嫌そうな声が私を現実に呼び戻す。アンジェリカは私の沈黙を誤解したらしい。むくれた顔で睨め付ける。

「いや――」

 何処もおかしいところはない、とやはり嘘は吐けなくて、結局言葉に詰まる。慌てて言葉を探すが、何も思い付かない。いつかの人喰い花より上手だなどと評すことなどできるはずもなく。下手でも楽しければ良いではないか、というあからさま誤魔化しは最早通用もしない。

「もう、いい」

 不服そうに立ち上がり、缶をオーバースローで投げる。みごとなコントロールで自動販売機横のごみ箱に入ったのだが、拍手は不要、と彼女の態度が物語る。

「十分に休んだだろう。帰るぞ」

 据わった目で私を見下ろす天使。天が墜ちる前に我が身に審判が下るのかと錯覚する。いつもならそれも悪くないと思えるのだが、いざ前にするとやはり臆してしまう。

 慌てて缶の中を飲み干した。中身はまだ程よい温かさが残っていて、言うほど時間が経過していない事が知れるのだが、へそを曲げた彼女には通じないだろう。口に残るまろやかな甘味が惜しい。

 私が立ち上がるや否や、アンジェリカは早足で先を行く。呼び止めても応じない。きちんと缶をごみ箱に捨ててから、必死に彼女の背に追い縋る。彼女は巧みにかわしてしまい、影すら踏むことは能わない。

 階段を下りたところで、ようやく追い付いた。

「最近、妙だ。ぼうっとして」

 ふう、と一息を着いたところに、そんな言葉が落とされる。こちらを見ずに口を尖らせる彼女は、どうやら拗ねているようだ。心ここにあらずであったのが、ばれていたのだろう。自分から絵を見せるように言っておいてこれなのだから、ひどい事をしたものだ。

「いよいよなのか、と思うとな」

 悲観的にはならないが、現実は見えている。

「もしかすると、私がしたことは無意味だったのではないか、と考える」

 失意の旅の最中に集めた色んな技術を、色んな人に分け与えた。子供達が自分の手で未来を掴めるようにと思い、科学教室を始めた。私自身は何もできないが、いつか何処かで少しでも役に立つのなら、と思ってのことである。

 だが、そのいつかが来る前に世界が終わってしまうのかと思うと、自分は本当に正しいことをしたのかと考えてしまう。もっと他にやるべき事があったのではないか、と至極今さら考える。正しかろうが、間違っていようが、何かが変わるほどの時間も残されていないというのに、この期に及んで誰かの評価を心配している。自惚れにも、「お前が怠けなれば世界は救われたのに」と責められることが怖いのだ。

 その不安を、誰もが抱えている。でも、どうすれば良いのかわからなくて、立ち竦んでいる。それが人間の性なのか、どうしても責任を考えてしまうらしい。なにが悪かったのか、どうすればよかったのか。でも、今さらどうしようもない。どうすることもできない――。

 そんな風に世界中みんなが浮き足立っているなかで、おかしなことに天使だけは地に足を着けていた。

「……君は、あまり気にしていないようだな」

 アンジェリカは再び柳眉を逆立てた。

「それは、馬鹿にしているのか?」

「そうではないが」

 アンジェリカは、この地上も長いというのに、はじめて逢ったときから変わっていない。人間の世界に適応はしたが、彼女の有り様が歪められることはなかった。現状を受け入れ、その上で希望を語る。私たちに希望を持って前に進むように促す。それを有り体に〝強い〟というのだろう。おそらく天使の特性。不安定で不出来な人間と違う。

 だから時折、私は疲れてしまう。励ましではなく、共感がほしいときがたまにある。しかし、アンジェリカはそれを察してくれない。そればかりか、そういうときもあることを理解してくれない。思えば昔からそういう部分はあった。職を辞したとき。旅の最中。帰ってきてからも、また。

 だからどう、ということはない。どんなに仲睦まじい夫婦でも、相容れぬ部分はある。まして天使と人間だ。考え方のずれは有って然るべき。

 ……ただ。

「君がこの状況をどう捉えているのか、たまに気になる」

 もうすぐ終わるはずの世界で、私たちは絶望せずにはいられない。生きていたい。どんな形でも良いから世界に残っていたい。生き残るのが難しいのなら、せめて我らがいた証を残したい。今はこうして静まっているように見えても、きっと誰もがじたばたせずにはいられないのだと思う。

 けれど、彼女にはそれがない。

 落ちるべくして天から落ち、新たな居住先が天に押しつぶされようとしていても動じない。有るがままにそれを受け入れ、座してそのときを待っている……かのように、私には思えた。諦念とは違う。受け入れる、とも違う気がする。高みからまるで観劇でもしているかのようで――ああ、もしかするとそういうことなのかもしれない、と一つの仮定に辿り着いた。

 天使は、絶望などする必要が無いのかもしれない。天が墜ちても天使はまだ世界に残り続け、だから自分達が消えることを心配しなくて良いのではないか、と。

 そう考えれば、納得がいく。世界の終わりも、それに足掻く人間の姿も、彼女たちには他人事なのだ。もちろん関心がないというわけではないだろう。私をよく励ますくらいだから。ただ、どうしても当事者になりきれないのだ。

 だからこそ、こうして私の投げかけた言葉に、神妙な顔をして頭を捻っている。

 そうか。それならば、それで良い。

「なんでもないよ。忘れてくれ」

 話を切り上げて、歩き出す。 

 どうやら私は、そうであることを期待しているようだった。自分達は残らなくても、どんな形であれ世界が残るなら、それだけで少しは救われる。アンジェリカが私を覚えていてくれるなら、私は虚しい想いをせずに済む。避けられない運命が待っていたとしても、全部が終わるわけではないのなら、それで良いではないか。

 不意に、アンジェリカが私の上着の袖を引いた。振り向いてみると、金色の旋毛が目に入る。

「……置いていくな」

 俯いたその表情は見えなかったが、その言葉の意味はきちんと正しく捉えていた。その上で、私はこう応えた。

「帰ろう」

 頭を上げた天使は、その綺麗な顔を精一杯歪めて私を見上げた。その崩れた表情に小さく笑って、片手を差し出し手を繋ぐ。天使の掌は適度に冷えていて心地良かった。

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