願いを囀る鳥の歌

 珍しく鳥の鳴き声がするな、と思ったら、軒先に鳥籠が吊るさっていた。白く真新しい四角い格子の中に小鳥がいて、絶えず囀っている。

 鳥籠の前には少女がいた。人間に当てはまるなら十三歳ほどのほっそりとした小さな姿。金髪のポニーテール。薄い水色のワンピース。白いケープ。可愛らしい私の同居人。

 アンジェリカ、と名前を呼び掛けると、鳥籠を見上げていた彼女が振り向いた。

「ニコルか。お帰り」

 素っ気なく言って、また鳥籠に青い視線を戻す。ただいま、を言った私もつられて鳥籠の中を見た。止まり木に留まった小鳥は、動かずに空の方を見上げて可愛らしい鳴き声を披露している。たった一羽なのに、雀の集団がいるときのような喧しさ。どこか必死さすら感じさせる。

「こいつは、なにをそんなに歌っているのだろうな」

 小鳥を見上げたまま、アンジェリカは呟く。その整った柳眉は、内側に寄せられていた。

「……翼が疼く」

 そうして彼女は、ピクリ、と背中の白い翼を少しだけ動かした。もう天を飛ぶことのない、天使の翼を。


 アンジェリカは正真正銘、本物の天使である。

 天が墜落したのに伴って、空から地上へ落ちてきた。

 何時の頃からか墜ちてくるようになった天。天に住まうはずの天使すら落ちてきてしまうような世界で、私達は最期のときを待っている。

 かつて、状況を打破するための研究を諦め、化学者を止めてしまった私だが、最近ではちょっとした科学教室を開いていた。先日出逢った少女の未来を信じる姿に刺激され、未来ある若者に自らの知識を分け与えようと思い至ったのだ。

 こんな終わりを目前にした世界でも好奇心旺盛で希望を持つ子どもたちには結構好評で、私も科学の実験を企画するのが楽しく、満足していた。避けられない終末に一掴みの可能性を残さんとはじめた悪足掻きだが、充足した日々を謳歌できているあたり、科学教室は大成功と言えた。


 これは、その教室の帰り道の出来事であった。


 人通りの少ない商店街の片隅で、もどかしそうに鳥籠を見上げるアンジェリカの様子に、私はどのように声を掛けるべきか迷った。籠の鳥を哀れんだのか。それともその姿に自らを重ねたのだろうか。見事な黄金率で整った貌は、じっと真剣な様子で囀る小鳥を見上げている。灰色がかった黒い羽。胸から下りるにつれて黒地は斑点になっていき、腹のあたりは白。小鳥というが、私の掌ほどの大きさがあって、少し大きいくらいか。

「いらっしゃい。何がご入用で?」

 そんな私の思考を打ち破ったのは、鳥籠の吊るさった軒先を持つ建物の奥から現れた中年の男性である。恰幅の良い身体、人の良さそうな顔、鼻の下にちょっとした髭。シャツとズボンといったシンプルな服装に無地のエプロンを着けた姿を見るに、ここはなにかの商店らしい。奥を覗き込んで見れば、野菜や果物が並んでいた。世界の終わりを前に、開店休業となっている店が多い中で、この店は商品がきれいに並べられて比較的整っている。諦めても自暴自棄にはなっていない印象。その所為か、どこか好感の持てる雰囲気があった。

「ああ、申し訳ない。客というわけではないんです。ただ、この鳥が気になって」

 我々がそんな会話をしてもなお、小鳥は必死に囀っていた。アンジェリカは一瞬だけ店主に目を向けたものの、再び視線を鳥籠に戻している。

「珍しいでしょう、この手の鳥は」

 店の前にたむろしていたというのに、店主はさほど怒らなかった。にこにこと人の好さそうな笑みを浮かべて、我らと同じように鳥籠を見上げながら話し出す。

「一昨日、散歩しているときにたまたま見つけたんですわ。ちょっと弱ってたし、このまま放っておくと猫か何かに殺されちまうんじゃないかと思ってね、拾ったんですよ。……ほら、今の鳥は翔べないから」

 そうですね、と私は頷いた。

 天が地上に迫った所為で自らの拠り所を失くしてしまったのだろうか、ここ数年とんと鳥が空を滑空するのを見ることがなくなった。鳶や鷹といった猛禽類が弧を描き滑空する姿、渡り鳥たちが見事な楔形の陣形で横断していく姿は、過去の写真や映像の中でしか見られないものとなってしまった。

 雀や鳩、鴉の類いはまだ街に健在だが、彼らはチョンチョンと地面を蹴るばかり。たまにその翼を動かしても、地面から建物の上に飛び上がる程度の羽ばたきだ。雀たちのじゃれ合いも、鳩が電車やバスを茶化すのも、鴉がふてぶてしく街の上を巡回する姿さえ、見られなくなって久しい。

「空があんなに物々しくなっちまったらねぇ……。飛ぶのが嫌になっちまったのかな、と思ってたんですが」

 鳥籠から空へと目を向ける。我々の頭上に広がるのは、青く広大な天やそこに点在する鱗雲ばかりではない。空を覆い落下を食い止めんと頭上に這わされた灰白色の人工物。墜ちてくる天を支える天柱から増設された枝。網目のようなそれは、かつて自由の象徴だった空を狭苦しいものに変えていた。

 あんな空、確かに私だったら翔びたくないかもしれない。

 そうして、私は傍らの天使に目を向けた。地上に落ちてしまったことで、なかったはずの重みを持つようになり、翼がありながら空を飛べなくなった天使。彼女は、あの空をどう思っているのだろうか。

「やっぱり、ちょっとでも飛べるのならば、飛びたいのかねぇ……」

 申し訳なさそうに店主が溢す。おそらく店主は手に入れた珍しいものを見せびらかしたかったわけでなく、単純に怪我した小鳥が哀れだったから保護したのだろう。そこに人間の独善が紛れていたとしても、心根が歪んでいると決めつけるには至らない。

 けれど、小鳥は自らの境遇に抗議せんとばかりに、囀るのをやめない。

「鳥籠を、開けてもいいか」

 不意にアンジェリカが店主を見上げる。ああいいよ、と答えて店主は肉の垂れた腕を上げ、軒先から鳥籠を下ろした。

 側面の小さな入口を開けて、アンジェリカは白い手先を籠の中に突っ込んだ。そっと人差し指を差し出してやれば、小鳥はブランコのような止まり木からアンジェリカの指へと跳び移る。それをそっと鳥籠から抜き出した。

 あれほど喧しかった、鳥の歌声が止んだ。

 鳥の乗った手を胸の前に持ってくると、アンジェリカはじっと小鳥を見つめていた。鳥のほうも意外に大人しく、じっとアンジェリカを見返している。青い宝石のような天使の瞳。黄色で縁取られたつぶらで真っ黒な小鳥の瞳。どちらもじっと動かず、互いに互いを見合っている。

 翼があるもの同士、通じ合うものがあるのだろうか。

 やがて、アンジェリカがふと視線を逸らすと、その隙をついて小鳥が羽ばたいていった。小さな翼を懸命に羽ばたかせ、店の屋根のその向こうへと消えていく。

「すまない。逃がすつもりはなかったんだ」

 目尻を下げて、申し訳なさそうにアンジェリカは項垂れる。気にしないで良い、と店主は胸の前で両手を振った。

「情は移っていたが、勝手にこっちが匿っただけなんだ。あいつが出ていきたいっていうんなら、それも仕方ないさ」

 それから、鳥が飛び去ったほうを見つめて、憧憬とも寂しさともつかない声で呟く。

「こんな空でも、あいつにとって空は空。やっぱり鳥は飛んでいたいんだなぁ……」

 私も、またつられるように空を見た。あの鳥が戻ってきやしないかと思ったのだ。けれど、戻ってこなかった。あれほど喧しかった囀りさえ耳に届かない。

 急になくなってしまった音に、耳が違和感を訴えた。それに寂しささえ覚えてしまう。

 人間は案外、喪失に弱い。

「帰ろうか」

 鳥を逃したことをもう一度謝罪してから、同居人は私を促す。ここで話したのもなにかの縁、と葡萄を二房買っていくことにした。

 帰り道。自動車が通ることの減ったアスファルトの端を歩きながらごそごそとビニール袋をまさぐって、アンジェリカが葡萄の粒を口に放り込む。種はなく、皮は食べられる品種なのだという。つまみ食いにはもってこいなのかもしれなかった。

「こんな空でも、空は空……」

 アンジェリカの行儀の悪さを咎めず、私は店主の台詞を繰り返す。枝の存在によって無限を失った空。私たちを押し潰さんとするそら。天使は追い出され、鳥は居場所を失った。

「それでもあの小鳥は、空に在りたいと願ったのだろうか」

 空を見上げて歌った鳥。あの必死な囀りは、きっと自らの境遇について訴えていたに違いない。

 自分たちの居場所はここではない、と。

「さて。あいつの願いなど知らないが」

 ぽん、と赤紫の粒が宙に弧を描く。放り投げられた葡萄は、天使の口の中に飛び込んだ。器用なことである。

「鳥は所詮、鳥にしかなれないのだよ」

 空に帰れようと、帰れまいと、翼をはためかせることしか知らないのだ、と天使は言った。できなければ潰えるのみだ、とも。

 空から鳥の姿が消えて久しい。見なくなった野生の鳥たちは、山に隠れてそれなりに生きているのでは、とも思ったが。

 鳥が鳥であることを辞めたのだというのならば。

「……そういう意味で、私も既に天使ではないのか」

 葡萄を放る手を止め、アンジェリカは首を傾げる。ふむ、と粒を指先で転がしながら考え込む彼女を見て、私もまた同じことを考える。

 天使はなにを以って、天使たるのか。裁きを与えず、神の声を届けず、人間を救うこともない。ただ、我らとともに破滅の瞬間を待つのみで。

 そして、科学者もまた、なにを以って科学者たるのだろう。物を作らず、原理を解明することもなく、世界に挑むことを諦めて。

 鳥も、天使も、科学者も、あるべき姿にない世界。

「……まあ、良いか。なんであれ、等しく滅びゆくことに変わりはない」

 悩むことを放棄して、天使はさくらんぼのような唇にもてあそんでいた葡萄を押し込んだ。その背は、翼を背負っていても、そこらの通行人たちと変わりない。

 私はそこに、人の世の終わりを見た。


 私は、いつか子どもたちが未来に行けるように、と科学教室をはじめた。私が為し得なかったことを、子どもたちに託そうとした。

 でも、鳥さえ空を飛べない世界で、それにどれほどの意味があるのだろう。

 天使や鳥たちに引き続き、我らもああしてこの世界から淘汰されていくかもしれないというのに。


 飛び去っていった鳥の歌は、やはりいつまでも聴こえなかった。

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