天に希望を託して
街に出かけると、よく神に祈る人を見かける。世界の終末を前にして神に縋るのは、人間にはまあ有りそうだなと納得の光景なのだが、天使のほうはそれが珍しく映るらしい。天使には、神に祈る必要性がないからだろう。しかし、祈る側が祈られる側に珍しげに見られているのを目撃してしまうと、信仰というものが滑稽に見えてきてしまうから困ったものだ。そして、そう思ってしまったことに申し訳なさも抱いてしまう。人間、誰しも救いは必要である。救いの一つとして神を求めたとて、いったいどうして彼らを非難できようか。
お茶の時間には少し遅い時刻。私は、アンジェリカと二人、およそ三日分の食材を詰めたポリエチレンテレフタレート製の袋をぶら下げて、アスファルトの上を歩いていた。活気は見られないものの、寂れたと言うには憚られる通り。その脇にある公園の真ん中で、綺麗に三列に並んで同じ方向を向き、地面に跪く集団が見られた。本来ならこの時間、子供の社交の場として使われているはずの場所。そこを大人たちが占拠している。
「あれは何だ?」
指さしこそはしなかったが、アンジェリカはまじまじとその集団を見ていた。縦横きっちり揃えられたその行列は、少しも乱れを感じさせないだけに異様に映った。
「集会だな。外でやるとは珍しい」
と答えてやるが、気分としては「見ちゃいけません!」と叱りつけて逃げ出したい。巻き込まれたくないのだが、一度興味を持つとこの天使は頑固なので、今すぐ離れようと言っても従いはしないだろう。さすがに天使、〝純粋〟、〝無垢無邪気〟の称号は、子供たちにも引けを取らない。要は、相手にも自分にも素直なのである。
さて、話を戻して、目の前で行われている集会について。なんてことはない。世界終末を前に突如現れた新興宗教だ。
天が墜ちる、すなわち世界の滅亡が迫るという事態は、人々に多大なる絶望を
そうして、神に祈る者が増えた。
それと同時に、新しい神もまた増えた。
神が信者を抱えきれなくなったのか、それとも人が現物だけでは満足できなかったのか。神より科学に縋った私には、巻き込みさえしてくれなければ何だって良いのだが、どう見ても不適切なものに傾倒している姿を見かけてしまうと、さすがに眉を顰めずにはいられない。
――あれは、どちらだろうか。
「神への祈りの儀式か……」
天使であるアンジェリカ。天使というからには、地上に落ちてくる前はきっと神に仕えていたに違いない。しかし、その詳細はあまり深く訊いてはいなかった。聴いてしまえば、きっとどの宗教が正解かを知ってしまうことになる。興味は大いにあるが、正しい一つを除いたその他多数が偽りであると知ったなら、それこそ天が墜ちる以上の混乱が世界中で起こるだろう。
逃げた、守りに入った、と言うなかれ。特定の神に対する信仰を持っていない以上、〝触らぬ神に祟りはない〟のである。
それにしても。晩夏とはいえ暑さの残る夕暮れ時に、よくもまあやるものだ。彼らの〝神〟とやらが、夕日で後光を象った紛い物でなければ良いのだが。
呆れながら眺めていると、一人の女性がこちらに気付いた。これはまずい、と近づいてきたのを見て内心焦る。何か言われる前に逃げだそうとしたのだが、相手はゆっくりとした足取りなのに、回り込むのが早かった。たちまち脱走の機会を失ってしまう。
「ご興味がおありですか?」
強風の中なら掻き消されてしまいそうなほどにか細い声。目の前に立つ彼女は、儚げと表現するのが一番適していそうな女性だった。年齢はいまいち判り難いが、まだ若造と呼ばれる私より年上であることは確か。
「いえ、別に……」
悪足掻くもそそくさと逃げようとする私であったが、その足枷となったのは他ならぬ私の連れであった。
「彼らは何を祈っているんだ?」
もしかすると、このときほどこの天使を憎々しく思ったことはないかもしれない。この一言で、私はここから立ち去る機会を失った。それどころか、聞きたくもない話を聴く羽目になってしまったのだから。
「この世界が滅び、我々が新天地へと向かうとき、神がより良き場所へ導いてくださることをお願いしております」
「新天地? テラフォーミングは今の技術力ではとても無理なはず」
迂闊な私の口が滑る。この星に救いがない以上、新しい場所を求めるなら他所の星、となってしまう私の思考回路。宇宙に行くだけの技術力はあるこの時代で、この発想は異常なものなのだろうか、と時折迷う。
「いいえ、別の星ではありません。私たちが今の魂の器を棄てて、行きつくところでございます」
それは天国――死後の世界と違うのかと思ったが、深く突っ込むのは止めた。藪蛇だ。
しかし、彼女は滔々と教義について語り始めた。今の世界が滅ぼうとしているわけ、滅んだ先に行ける新天地の素晴らしさ。言葉を重ねていくほどに声に力が入っていく様子から彼女の熱心さが伝わってくるが、それ以上に何処か必死さを感じさせた。
信じさせよう、というよりも、信じるよう自分自身に言い聞かせているような。
この時代、私が表面的に見聞きしてきた限りでは、信心深い者の多くはそんな風だった。必死に縋るその様は、自分の信じているものが虚像であることを判っているのではないかとすら思えてくる。
「新天地に行けなかったらどうするんだ?」
残酷なアンジェリカの質問に、女性は信じられないものを見るかのように目を開いた。
「そんなことあるはずありません」
これまでで一番力強い言葉だった。悲痛さも感じられるその叫びに、少し罪悪感を覚える。それだけ自分の世界を守るのに必死なのだ。
――この世界は、そうまでして否定したくなるような世界だろうか。例え、破滅が目の前に広がっていたとしても、直視することを拒んでしまうような酷い世界だろうか。逃避しか救いの道はないのだろうか。
その質問に答えようと言うのか、女性は自分の鞄を漁り出した。出てきたのはしっかりとした装丁の本だ。少し大袈裟すぎる気がする。それを
「これを読めば、私たちがどのような未来を得るのか、そのために何をするべきなのかがきっとお分かりになるはずです」
「いや、私は……」
状況から判断して、おそらく経典か何かなのだろう。そんなけったいな物、断じて要らないのだが。
「どうぞお読みになってください」
その細腕からは想像できないほど強い力で私の片手を引っ張ると、掌に冊子を押し付けた。さっきの儚げな雰囲気は何処に消えたのか。今の彼女は善意を武器に私の価値観に攻め入る侵略者だった。
そして、侵略者とは得てして理不尽なもの。
「天使と共にありながら、道を外れるなどという愚は犯しませんように」
その叱責は、私にとっても連れにとっても大変に不愉快なものだった。普段は気にも留めないくせに、こういうときだけ天使を引き合いに出して自分の正しさを証明しようとするとはなんたる傲慢。今更アンジェリカを天使として崇めて欲しいわけではないが、しないのであれば一貫してそう努めてもらいたい。
――私に、アンジェリカに、お前の世界を押し付けるな。
彼女が私に本を押し付けてそそくさと立ち去らなければ、きっとそう叫んでいたことだろう。公園の集団を敵に回さずに済んだのは幸いなことだったが、この怒りは不完全燃焼のまま終わってしまった。
苦々しく手の中に残った本に視線を落とした。投げ捨ててやろうかと思ったが、ここが往来の場であることを思い出した。道端にごみを捨てるのはよろしくない。それに、何が書かれているのであれ、無闇に本を棄てるのは躊躇われた。
そうして手元に残してしまうと、何が書かれているのかだんだん気になってくるものだ。ああいう人たちが何に救いを求めているのか、少しだけ興味が湧いてくる。
本の表紙に手を掛けた。始めから読んでも良かったが、なんとなく裏表紙を開いてみて、そこに書かれた数字に思わず失笑してしまった。
「どうした?」
私が百面相をしているのを不審に思ったのだろう、アンジェリカが尋ねてくる。答えようとしたところで、また誰かに声を掛けられた。また勧誘か、と追い払おうとして……躊躇った。
それは、公園で跪いていた大人たちでなかった。学生服を纏った、まだ幼さの見える少女であった。ボブカットで、闊達そうで。どのような学校生活を送っているのか一目で分かる。
いつの時代も子供は変わらないな、と頭の片隅で思いながら、そんな少女がいったい自分たちに何の用だろうか、と首を傾げる。
「あの……母がすみませんでした」
その女の子は、大人びた態度で私たちに頭を下げた。そうか、あの女性の娘だったのか。
「母はあまり強くなくて……ああやって神様にでも縋っていないと、世界が滅ぶのが怖くてとても平静じゃいられないんです」
しおらしく少女はそう言った。他人の前で自分の親を非難するのは感心なことではないが、それだけ親の信仰心に辟易しているのだろうと推測された。年齢よりも精神の成長が早いのは、本人の性質もあるかもしれないが、肝心の大人が当てにならないからだ。
「君は……信じていないのか?」
尋ねると、信じていません、とはっきりとした答えが返ってきた。それでも母について来たのはどうしてだろうか。
「だって新天地って、よくわからないじゃないですか。何処にあるかわからないし、どうやって行くかもわからないし。あれを信じるなら、死後の世界を信じたほうがまだマシです」
ツンとして少女は言い張った。その姿は年相応。ようやく自分というものが安定したときに顔を見せる反発心――いわゆる反抗期の態度そのものだった。きっと母親と日常的に揉めているに違いない。
「それに、神様にお願いするだけでどうにかなるとは思えません。とにかく何かやってみないと。動かなければ何も変わらないでしょう?」
それは、私には少し耳の痛い言葉だったが、共感するところは充分にある。かつては私もそう叫んで、研究に打ち込んでいたのだから。こう見えて、その何かが判らなくて、現在も焦りともどかしさの中で模索し続けているのだ。相変わらず何も見つかっていないのだが、希望はまだ失っていない。
「その通りだな。よく言うじゃないか。『天は自らを助くる者を助く』」
私はアンジェリカを見た。少女もまた彼女を見た。呆然とする私たちを他所に、古い
天使の思考は人間に予測し得ないものなのか、それともアンジェリカだからなのか。ここで天を持ち出すなんて。
やがて、少女はにっと笑った。少し苦みが混じった、力強い笑顔で。
「天使様が言うと含蓄がありますね」
アンジェリカの言葉は、果たして少女を勇気づけたのか。
じゃあ私帰ります、と言って軽く頭を下げ、少女は去っていった。母と共にこれから家に帰るのだろう。奥で合流するのが見えた。
こちらもまた、帰路に着く。とんだ道草だった。
「よく知っていたな」
無論、あの諺のことである。確か、童話に書かれている言葉だっただろうか。
「ニコルが持っている本に書いてあった」
そういえば、と思い至る。家に童話が何冊か置いてあった。あれは確かもともとは祖母の物で、私が子供の頃、絵のないその本をよく読んでくれたのだった。祖母が亡くなったとき、なんとなく惜しくなって形見代わりに引き取ったのを思い出す。
そして何処かの本棚にしまいこんだまま忘れていた。まさかアンジェリカが読んでいたなんて。
「新しい言葉に力はないとは言わないが、昔の言葉の力は絶大だな」
存在すら忘れられていたはずの本に書かれた言葉が、ふと何気なしにこう蘇ってきて、思わぬ作用を齎していく。長く継がれてきたのも、こうして再び語られるのも、力があるからこそなのだろう。
では、この本に書かれた新しい言葉には、そんな力はあるのだろうか。
歩きながら経典を開く。さっと数ページに目を走らせた。それだけで十分だった。
興味を示したので、アンジェリカに差し出した。彼女もまた行儀悪く、歩きながら本を読みだした。
「初版は二年前だ」
始めに裏表紙を開いたときに見た数字を読み上げる。つまり、天が墜ちはじめた後に発行されたものだった。中身は人の願望を叶えてくれるような、耳障りの良い言葉の羅列。深く読み込んでみれば、おそらく天の墜落についての都合の良い解釈と、それに恐怖する者を慰める文言が並び立てられていることだろう。姑息な誤魔化しだ。教訓も自戒もない救いの本質は、甘い毒でしかない。
「こんなものを書く大人より、子供のほうがよっぽど現実を見ているな」
アンジェリカは退屈そうに本を閉じると、買い物袋の中に突っ込んだ。人の祈りに関心のある天使にとっても、あまり面白い内容ではなかったらしい。
「前を向いている、が正しいだろう」
現実的、とは何かが違う気がして訂正してみた。言ってみて、そういうことなのだ、と思えてきた。
大人になると前を向くことが難しくなる。前を向くことを否定的に捉えるようになることもある。それが当然になってしまった私たちは、それを懐かしんで、羨んで、そうしながらも腐ることが大人になることだと決めつけて、なかなかその道に戻ることができなくなってしまうのだ。
あの信者たちは、その成れの果てだろう。目の前に多大なる絶望が迫り来ているものだから、より顕著になってきているのかもしれない。現実よりも幻想のほうが体力を使わない。希望より絶望のほうが気が楽だ。そうして逃げて、慰めることで安定を得ようとしている。
私だって、一度逃げた人間だ。気持ちはわからなくもない。が、あそこまで堕ちたくはないものだ。あの母娘を見るとそう思う。あの二人のどちらが良いかなんて、そんなことは明白だ。
「いいな。ああいう子供たちは」
かつて同じ道を行き、現在の我々には到底たどり着けない道を行かんとする子供たち。世界が滅びようとしている現在にあっても、彼女たちは無条件に未来を信じていた。彼女のような子を見ていると、無限の可能性などというものが見えてきそうだ。あの子が大人になってもまだ世界が残っているようなそんな気がしてくる。
『天は自らを助くる者を助く』。世界を押し潰そうとしている元凶が我々を救うだなんて、有り得るのだろうか。しかし、我々は未だ、天に可能性を求めている。
その姿が滑稽であるかどうかは、未来に判断をゆだねるとして。
さて、私はどう私を救おうか。
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