断章
終末前の昼下がり
暑い。
まさに
天と一緒に太陽も落ちてきたのではないかと考えるが、窓の外を見れば、太陽の大きさは以前と全く変わらず、天に押しつぶされようとしているこの世界を上から照らすのみ。まさに高みの見物である。
どうせなら一緒に落ちてくればいいものを、何故かそうならないのだから、やはりこの天が墜ちるという現象は不思議である。もっとも太陽が接近していたとするならば、それは墜ちてくるのではなくこちらが太陽に引き付けられているということになるので、これまた違う話になってくるのだが。
現在、私は湿気の多い暑さから少しでも逃れるため、籐の椅子に腰かけてタブレットPCを弄っていた。記録は断然アナログ派な私だが、かといってデジタルを否定するわけではなく、こうした暇つぶしに大いに活用させてもらっている。今見ているのは、世界の終末を前にして新しく出てきた素材の特性について書かれた論文。検索エンジンのトップに掲載されていたニュースを見て興味を持ち、関連する論文をネットワークの中から探し出してきたのだ。
絶望し、研究から逃げ出して旅に出たというのに、旅の最中どころか家に帰って暇を持て余してみてもこの始末。自分のオタクぶりをつくづく思い知る。これも理系の性か。
今、世界は終末の危機にある。
何時の頃からか天が墜ちてくるようになったのだ。かつての常識からみれば有り得ない現象、だが今となれば、その原因は不明なれど確実に起こっている現実だった。宇宙に逃れる術はなく、地中に逃れる希望もなく、天に住まうはずの天使すら落ちてきた現状の中で、我々は〝天柱〟と呼ばれる塔を建てて天を局所的に支える以外に生き残る術はなく、緩やかに墜ちる空を見上げるばかり。
私は、そんな世界をどうにかしようとしていた化学者の一人だった。過去形だ。報われない現実から逃げ出してしまったので。
そんな私を救ったのが、化学者時代に偶然出会った、落ちてきた天使アンジェリカ。彼女(と呼びながら実は無性である)は、報われない日々に絶望した私を旅に連れ出し、寄り添い、励ましてくれた。その甲斐あってか、逃避のための旅がいつの間にか知識の蒐集が目的にすり替わる程度には、私は立ち直っている。
その旅を終えた私は、その知識を周囲に提供することはしていたが、結局元の職場に戻ることはせず怠惰な日常を過ごしていた。逃げたのが後ろめたくもあったし、研究に携わることはもはや自分の役目ではないとも感じていた。たまに薬品を弄っていた時期を懐かしむこともあったが、それよりも同居人と安穏と過ごす日々を大事にしたいと思うようになったのである。
――せめて、最期の日々は心穏やかに。日溜まりのような優しい世界の中で終わりたいと思う。
今は、日溜まりどころか炎天下だが。
さて、今はすっかり私の家族となっている天使のアンジェリカは、最近絵を描くことに嵌まっているようだった。家の何処からか画材を見つけ出して以来、紙を見つけてはそこに色を塗りたくっていた。その絵は非常に個性的――否、正直に言おう、子供の落書きのようであった。かの有名な抽象画家になら対抗できるかも、などと言ったら、その画家に失礼だろうか。
椅子に凭れたままタブレットPCから視線を外し、横目でそのアンジェリカを見る。床にぺたりと座り込み、紙を一面に広げて真剣に絵を描く姿は、さすが天使、愛らしい。けれどその絵が……とついつい見てしまい、笑ってしまった。
笑いを堪えきれなかった。
「何か面白いものでもあったか?」
まさか自分の絵が笑われているとは思っていない彼女は、不思議そうに首を傾げた。
言うか言わないか迷った末、私は意地悪くも言うことにした。
「何の絵を描いたんだ、アンジェリカ?」
途端、彼女は顔を羞恥で赤く染めた。何の絵を描いていたか。そんなこと、下手な絵から推測しなくとも、彼女の前にあるユリの花の鉢植えを見れば分かる。
だが、白い紙いっぱいに描かれたそれは、私には物語に出てくるような人喰い花にしか見えなかった。花弁の斑点が歯に見えるのだ。ヤマユリであったことがなお悪い。赤と黄色の絵の具を混合して作った色は橙ではなく赤寄りの色となり、一層口内を思わせるのだ。
それでも、花に見えるだけ上出来か。
「世界の終末は近く、環境も変わった。植物をはじめとして、変異種も現れ始めた。そのような花が出てきてもおかしくはないか」
何気なく冗談として口に出した言葉だったが、それをきっかけに頭の中が暴走してしまったらしい。もし出てきたとして……とその先を考え始めた。
天の墜落によって破滅を前にした世界。だが、人類を脅かすのは天だけではなかった。この世の生き物たちが変異して、人を襲い始めたのだ。人食いユリもその一つ。普段は他の花と同じようにすまし顔で佇んでいたその花は、人が近づくとたちまちその花弁を大きく開いて丸呑みにしてしまうのだ。
……まるでB級映画だ。
そんなことを考えて、ついつい笑ってしまったのだろう、気がつくと不貞腐れた顔の彼女がそこにいた。
「他人の絵を見て笑うなんて、最低だ」
つん、とそっぽを向いた。どうやら笑いすぎて、機嫌を損ねてしまったようである。
悪かった、と謝罪をするが、すっかりへそを曲げてしまったようでこちらを見ようとしない。許しを乞うてみたが、取りつく島がなかった。
「なんでもするから」
と言うと、意外にも心動かされたようだった。なんだ、天使も現金なんだな、と彼女の機嫌を損ねそうなことを考えていると、
「なら、外へ行こう」
この炎天下の中へ出ろと言う。
何の罰だ、と本日三度目の不謹慎な発想が頭を過った。
さすが神の御使いというべきか、天使は暑さを感じないようであった。油断すれば熱中症で命を取られかねないほどの気温の下であっても、私の着古しの冬物を着て平然と立っている。天界を追放されてなお世界に愛されているのだからずるいなんてものではないのだが、それはそれとして、さすがにそれは視覚の暴力でもあるから止めてくれと懇願し、ついでに彼女が着られるような洒落た服を持っていない自分を反省し、近くの服屋に夏物を買いに行ったのが初夏のころ。見た目にふさわしいものを、と自分のものを選ぶよりも熱心に選んだものだった。
そうして選んだのが、薄い水色のワンピースに、白のレースのケープ。やはり天使には白である。本当はワンピースを白くしたかったのだが、以前と同じ色は嫌だというので、妥協した。その代わり、頑としてレースのケープは譲らなかった。それで正解だったと思う。
そうして衣替えをした彼女だが、それだけで実際の暑さは変化しないわけで。
「さて、何処へ行く」
外に出て早々暑さに参った私は、それはもうつっけんどんに訊いたものだった。
「動物園か。水族館か。博物館や科学館なんてものもある」
投げやりに提案していくうちに、自分の欲望が顕著になってきているのが分かる。暑いから外にはいたくない、となれば建物で十分楽しめるところ。水族館は見た目にも涼しいし、博物館は貴重な品を管理しているから、空調に気を使っていること間違いなし。そして科学館は、言わずもがな、自分が最大限に楽しめる場所だ。
しかし、彼女はどの提案にも首を縦に振らなかった。気に入らなかった、というよりはすでに決めていたようであった。
「空がよく見えるところに行きたい」
さすがの私も否やとは言えなかった。
空がよく見えるところ。山に登るかとも考えたが、自動車を走らせて一時間ほどのところに高原があることを思い出し、そこに行くことにした。山の頂上ほどではないが比較的空に近く、その上開けた場所である。
最適な場所に思えた。
バスに乗り、駅で別のバスに乗り替えておよそ一時間。たったそれだけの移動距離で、我が家と空気がまるで違った。直射日光は厳しいが、真夏なのに冷やりとしている。ただ、そう、失念していたのだが、冷涼な気候の土地は放牧に適していて、今は動物たちが外で草を食む時期であった。それ故に辺りは動物の臭いが漂っていて、とても空気がおいしいとは言えない。失敗したか、と後悔した。
しかし、だ。
当のアンジェリカのほうは、臭いなど気にならないようだった。バスを降りたその場所で、頭をわずかに上げ、すう……っと引き込まれるように青空を見ていた。背の翼がわずかに痙攣する。空を飛びたいのだろうか。
天から落ちた天使は、やはり天が恋しいらしい。当然だろう。私だって故郷が懐かしくなる時がある。もっとも、田舎の一角にあった我が故郷は、天柱の建設地となった所為でとっくに失われているが。
天柱は奪うばかりで何も与えてはくれない。崩壊を緩やかにするばかりで安息は与えられないうえ、故郷を奪い、その技術の公開もしないくせに、真剣に世界の終わりを止めさせようとする科学者を嘲笑う。さらに加えて、国内でも天柱の枝が折れて五十人近くの死者が出たことは記憶に新しい。
そう言えばこの場所。これだけ広大な土地であるにもかかわらず、天柱が立っていない。見上げても、天柱の細い枝が数本見えるだけだ。それだけにアンジェリカの希望に添えたわけだが、複雑な感情が入り混じる。このような場所が残っていたことによる安堵と、人の少なく広い場所であるなら犠牲は少ないだろうという建前で隠される少しの悪意と。
「……どうかしたのか?」
ふと気がつくと、こちらを覗き込むアンジェリカ。知らぬ間に彼女以上に惚けてしまったらしい。なんでもない、と応えて、
「どうだ? この場所は」
もともと彼女のご機嫌取りのために来たのだ。満足してもらわねば意味がない。
「期待以上だ」
彼女が笑みをこぼすと、まるで光が差したようだった。そのまま楽しそうに、軽快に牧草地の脇を歩いていく。
緑の草原に立つアンジェリカは、身につけた服の色合いの所為か、空が人の形を取ったようであった。金の髪は太陽の光。水色の服は空の青。白のレースは雲で、羽根は風のよう。まるで一枚の絵画のような、美しくて幻想的な絵画。人の理想を閉じ込めたその姿は、まさに天使と呼ぶに値する。
空を支える人工物が勿体ないほどで。
それほどまでに地上の景色に溶け込んでいながら、ここは彼女の居場所ではない。そう思った。
「空に、帰りたいか」
そんな言葉がついて出る。もしも帰りたいというのならば、それに応えるため再び研究の道に戻るのもやぶさかではなかった。私にとって、彼女にはそれだけの価値がある。
「いいや」
だが、彼女は当然のように首を振る。
「私は空から落ちた身だ。その時点で、帰る場所ではなくなったのだよ。それに、私はここに居たいからここに居る」
ここに来たのは、空がただ懐かしくなっただけだ、と言って、だから、と続けた。
「お前は、お前のしたいことをすればいい」
何を言っているのだろう、と思った。私は自分のしたいことをしている。それは、たまに実験をしていた頃を懐かしむときもあるが、穏やかに世界の最期を迎えると決めたはず、なのに。
――時折、意味もなく指の先を眺めるときがある。
かつて、薬品でよく薄皮を剥いていた私の手。そのときに比べると今はすべすべとしていて、楽になったと思っていたわけだが、そこに寂しさを感じていたのは本当で。
もしかしたら、彼女にした質問は、一度逃げた後ろめたさを緩和する〝理由〟を求めていたからなのかもしれない。私は、私自身を実は持て余しているのだ。
帰りたいのは、彼女でなくて私のほうだったのか。
悩みなどなかったはずなのに、その結論はすとん、と胸に落ちて。だけど、そこからまた新しい波紋が広がるように、私の内で何かが沸き立つ。
――こんなことをしている場合か。するべきことがあるのではないのか。
もどかしさが全身を支配する。居ても立っても居られない。今からすぐにでも家に帰りたい。
「帰るか?」
ふらふらと歩き回っていたアンジェリカがいつの間にか目の前に立っていて、青い瞳で私を見上げていた。
その真っ直ぐな瞳に、心が凪いでいく。目に反射した、焦りに満ちた私の表情が酷く滑稽で仕方なかったのだ。
「いや」
否定の言葉は自然と出ていた。何故だろう、と考えて、ふと気づく。
「せっかく牧場地帯に来たんだ。チーズか、ソフトクリームくらいは食べていこうじゃないか」
片道一時間の距離をものの五分で終わらせることほど無駄なことはない。考えたいことがあるとしてもだ。それに、焦って見つけた答えほどのちに後悔するものだ。何をするにしても、一息吐いてからの方がいい。
世界の終わりが目前だとしても、出掛けた先で美味しい物を食べるくらいの猶予はある。身の振り方も、今後の予定も、その後に考えても遅くはないだろう。
最期の日は心穏やかに、と決めているのだ。停滞したような単調な日々でも使命感に駆られた激動の日々でもなく、常に満足いく日常こそが、私の望みなのだということを見失ってはいけない。
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