逃避の果てに

 いつの間にか、人類救済の流れにもう一つ新しい流れが加わった。宇宙ではなく、地面の下に逃げようという話である。天が墜ちるところまで墜ちたとしても、それはせいぜい地上までだろう。ならば、地面の下に逃げてしまえば、その被害を逃れることができるだろう、とのことらしい。

 その地面の下に空洞を作るのにどれほどの時間が掛かるのか。そこに何人の人間が逃げ込むことができるのか。硬い岩盤はどうするのか。食料は。地盤沈下は。マントルによる熱は。疑問点を上げればきりがない。まあ、それは先の二つについてもそうなのだが、さらに現実感のない話として大多数に切り捨てられた。

 そもそも、天が墜ちている現象が星が縮んでいることに他ならない場合、地面に逃げるのは破滅をさらに遅らせるに過ぎないだろう。それは打開でも維持でもなく、逃避でしかない。

 もう一つ変化があった。天柱が天樹に変化しだしたのである。柱に枝が生えた――要は建設された。天を支える“点”が増えたのである。これでさらに天の墜落を遅らせることができる。こちらは僅かな安堵をもたらした。

 それにしても天を支えるとは、相変わらず不思議な現象である。我らが求める答えはあれに隠されているはずだ、それさえ分かれば道はあるのに、と絶望の最中でぼんやりと思う。

「天柱を調べてみればいい」

 ついに気力を失くした私に彼女はそう言い放つ。

 我々も心の奥底で実は常に考えていた。あの仕組みを知ることができれば、すべての解決の糸口が掴めると確信していた。そもそも、我々は天が墜ちるという現象を理解し得ないままどうにかしようと頭を絞っているのである。真っ暗闇の中で特定のものを探すなどどうしてできようか。

 だが、そう言われてもどうしようもないのだった。天柱の技術は開示されておらず、我らの社会的地位は低いため、要求することすらできない。せめて素材だけでも教えて欲しいところであるが、それすら阻まれていた。

 法を犯すことも全く考えなかったわけではない。天柱に侵入するのだ。盗み見て、建材を失敬して分析する。そうして糸口を掴む。しかし、天柱の警備は仰々しいほどに厳重だという。大げさかもしれないが、紛争地域並みだと表現した者もいた。

「……何故そんなことをする?」

 天柱周辺の状況を聞いたアンジェリカは首を傾げる。人間社会を知らぬのだから、なおさら不思議なのだろう。

 ああ、でも、本当はそれはこちらが訊きたい。世界の危機ではないのか。対策は急務ではないのか。

 これでまさか特許や独占権などとかいった政治経済が関わっていたら冷嘲するが、こんな時こそ利得が絡む――絡め取られるのがまた人間なのである。期待したところで無駄だろう。


 彼女との話をきっかけに、そんな思いが強くなった。次第に馬鹿馬鹿しくなって、研究をやめた。


 私の意志の脆弱さについての議論は、今は脇に置いてほしい。それを知ってもなお、研究を続ける科学者は大勢いる。私の行動は彼らを否定することだと分かっている。それでも私は負けてしまった。先の見えない研究。成功したとしても、普及するまでにさらに時間が掛かってしまい、世界がそれまで耐えられるのかという不安。耐え続けるのはもう限界だった。


 退職金を貰い、暇を持て余した私は、残りの時間の使い方について悩み始めた。なにぶん仕事に追われていた状況だった(断じて望んでいたわけではない。世間がそうさせたのだ)ので特に時間を潰せるような趣味もない。アンジェリカと過ごすことは決まっていたことだったので、彼女に伺ってみた。

「旅をしてみてはどうだ」

 と、彼女は言った。

「色々見て回ったら、何か良い案が浮かぶかもしれないぞ」

 ……どうやら彼女は、研究を諦めてほしくはないようだった。

 だが、旅自体は名案に思えた。果てる前に、この世界を目に焼き付けておくのもいいだろう。そう思ったのだ。

 私はバックパックを用意し、いくつかの着替えと食料、財布、ノートとペン……必要最低限な物から持てるだけ詰め込んだ。もちろん、この記録も持っていく。

 アンジェリカと二人、バスや鉄道などの公共交通機関を乗り継いで外の世界へと旅立っていく。

 ひとまず暮らしていた町を出ると、人々が今どう生活しているのかが改めて見えてきた。自分は研究のことばかり考えていたのか、周囲がほとんど見えていなかったらしい。社会の様子に少なからず衝撃を受けた。

 まず、活気が消えた。終わりが見えてきた世界で、人々はとうに気力を失っていたらしい。特に、経済活動についての意欲がなくなったようで、店は開いているがほとんど開店休業状態。売り込みの声など聞こえない。営業に回るサラリーマンの姿も見えなかった。本当に必要最低限のことしかしていない、といった状況である。年月をかけ積み重ねてきた文明も、これでは全くの無意味だ。退廃していないだけまだマシか。

 他に特筆すべきは、神に祈る人が増えたことだろうか。天が墜ちる前も特定の宗教を持っている人は多くいたが、それよりもさらに多くの人が頻繁に神に祈るようになっていたのだ。気持ちはわかる。このどうしようもない状況に、神に縋らずにはいられないだろう。私だって、研究という使命がなければ、縋っていたかもしれない。今も気を抜けば縋ってしまいそうだった。

 ただ一つ不思議なのは、そんな人たちが天使の姿を見ても何の反応も示さないのだ。真っ白な羽根の生えた私の同行者は、どこからどう見ても天使にしか見えないというのに。幽霊のごとく存在が見えていないのかとも思ったが、ときに彼女に菓子を分けてくれる人もいたため、そうでもないようだ。

「この世のものに縋ってもどうしようもないのだろう」

 疑問を口にすると、アンジェリカはそう答えた。またしても意味を捉えかねる答えである。訝っていると、以前と違い、彼女は説明をしてくれた。

「この世に落ちただけで、それはすでに超常の者ではない。超常の力がない者に、この世界は救えない」

 そう捉えているのだろう、という。だがそれは事実でもあり、彼女も実際に救いを求められても困る、と言っていた。

「それよりも、お前にはすることがあるだろう」

 時折、彼女は私にそう告げる。彼女はどうしても研究を諦めて欲しくないようだった。あまりのしつこさに、このときは苛立ったものである。無論、大人げなくそれをぶつけることはしなかったが。

 しかし、私は生粋の科学者であったのか。知らず知らずのうちに、宛てのない放浪の旅が技術・知識の蒐集目的に変わっていたのである。

 きっかけは、道端の植物を観察した男に声を掛けたことである。その男は生物学者で、天の墜落によって生体に変化が生じていることを発見したと語った。天が地上に迫ることによって、目には見えなくとも環境に変化が生じていて(例えば気圧の変化。いつの間にか一気圧の定義が1013 hPaから変わっていた)、それに適応しようとしている個体が出てきたのだという。

 はるか昔に終わったはずの進化の過程が、ここに来てまた訪れたのである。これは一つの希望であった。いずれ大多数に自然淘汰という選別が行われるにしても、未来があることには変わりない。

 このときから、私は各地の科学者に話を訊いて回るようになった。専門分野、有用か否かに限らず、とにかく聴いていった。聴いた話は、何かあったときのメモ用だったノートに書き留めていった。世界を救う手立てを探す、というよりは純粋な知識欲のような気もするが、何かに役立てればそれでいいと思っていた。

 いろんな話を聞いた。なんと、天柱の建材候補になっていた材料についての話も聞けた。時には、私が聴いた話を技術者に提供することもあった。

 日を増すごとにノートは増えていった。それに伴い荷物が重くなっていったが、特に構わなかった。文明の発展した社会だ。タブレット端末などがあれば嵩張らずにデータ保存などで来たのだろうが、生憎私はあれは好かない。記録が早いのは紙とペンだし、あれはこまめな充電が必要でバッテリー残量を気にするのが億劫だった。

 ある程度蒐集すると、住居に戻ることを決めた。集めた情報をまとめて、検討して、役立てるのである。以前のように新素材を作るのでもよし、全く違う物を作るのもよし、自己満足のために追及を続けるのもよし。まあ、気楽にやってやろう。とりあえずこのノートを同僚に見せるのだ、そこからだ。

 そんな私の考えを伝えると、アンジェリカは満足そうに頷いた。

「それがいい」

 職を捨ててから口喧しく言っていた言葉を、彼女はいつの間にか言わなくなっていた。 



 最近、天柱の枝が折れたという話を聞いた。真下にあった町村は、大変な被害を受けたそうだ。

 それどころか、天柱に罅が入ったという話まで出回っている。

 ……否、本当はもういくつか失われているのではないだろうか。ここのところ、圧迫感を感じるのだ。見上げれば、空は以前と変わらない抜けるような青さなのに、透明なガラスの板で押しつぶされているような圧迫感。空が低くなり、気圧が上がっているのだろう。

 世界は、そろそろ終わるのかもしれない。


―――――


 この後、世界がどのようになったのか、それは諸君らの知るところとなるだろう。

 私の記録は、ここで止める。

 当初の目的はともかく、今の私が求めるのは、世界が危機を脱するまでに何があったのか、これを読む君たちに知っていてもらいたいからだ。その上で私がどのように貢献できたのか、はたまたできなかったのか、それを辿ってもらえれば幸いだ。




 最後に、アンジェリカのことである。

 天から落ちてきた天使。形而上のものから形而下のものへ落とされた彼女。彼女の到来は私の生活に同居人が増えた程度の変化しかもたらさなかったのだが、何かそこに訳があるような気がしてならなかった。

 自宅へ帰って幾ばくかの日が経った後、私は彼女と初めて会った日と同じ質問を繰り返した。

「天が墜ちたから、私たちは落ちた」

 そうやって同じ答えを返したが、そこで終わらなかった。

「天の墜落は我々にとっても憂慮する事態。しかし、天から落ちた我らに人を救う力はなく、まして止める術もない。今の私はお前たちと同じ、この世界の無力な住民に過ぎないのだよ」


 周囲の人々を笑えない。私は、本当はすでに天使に――奇跡に縋っていたのかもしれない。

 おそらく、きっと、これは、最期まで彼女に言うことができなかっただろう。

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