天の墜ちる世界で
森陰五十鈴
天の墜ちる世界で
天使と化学者
――化学者アランの記録より――
いったいあれはいつからだっただろうか、天が墜ちてくるようになったのは。
そもそも天とは頭上高くに遥か広がる空間のことであって、墜ちてくるようなものではなかったはずだ。もしかしたら、この星を覆う大気圏のことを指すのかもしれない(気体だって重量がある。自由運動を続けているものが重力に引っ張られて気体の層が潰れたりして、それを“墜ちる”と言っているのかもしれない)が……この場合、当てはまらないような気がする。
なにせ、墜ちてきた〝天〟を塔が支えているのだから。
その塔は、天が墜ちてきたことが発覚した後、慌てた人間が急務で作り上げたものである。落ちてきた天井を支える柱と同じ発想。建造物ではあるが設備といえばせいぜい上部建設のためのエレベーターくらいしかなく、塔などというのはほとんど名ばかりで〝天柱〟などと呼ばれている。
この天柱、バベルの塔の如き建造物を人間が建てることができたという点でも驚きのものだが、それよりなにより驚くべきは、天を支えることができている、という点だ。とりあえず、であるが。天柱によって、天が墜ちてくる速度は確実に遅くなっている。完全に止めることができないのは、単に建築資材の耐久性の問題だ。天柱は常に補修・補強され、なんとか保ち続けている。
先にも述べたが、天とは頭上に広がる空間のことである。空間とは物質ではない。物質でないものには触れられない……はずである。いや、確かに物質は存在するのだが、気体の層を支えるなどということは、少なくとも現在の科学力では到底不可能なはずだ。それを如何様にして塔などで支えることができたのか、果たして気になるところではあるが、生憎私の社会的地位はそう高くない所為か知ることは能わなかった。
後世、天の墜落の問題が解決、もしくは他に移住する場所などがあり、生き残った者たちに現状を説明するために前置きが長くなってしまったが、そろそろ本題に入ろうと思う。
まず、私について改めて紹介させていただくが、名はニコル・アラン。化学者である。微力ながらこの世界の終末をどうにかしようと模索する者の一人だが、その成果はあまり芳しくない。
ではなぜ、このような記録を残そうと思い立ったのか。それは私が天使に遭遇したからである。ある休日、近所を散歩しているときに橋の下に倒れているのを見つけ、保護したのだ。
これは、私がその天使と共に過ごす日々の記録である。
―――――
天使は、人間が想像した通りの存在だった。人間と似た姿を取り、すらっとしたやや細身の体型。その背に白鳥の如き羽根を持っている。長く真っ直ぐな髪は金。瞳は青。顔は端正……というよりも、見事な黄金率でパーツが配置されている。はしたなくも好奇心から白いローブの中も見せてもらったのだが(尋ねた私よりも躊躇がなかった。恥がないというより、性に対する意識がないのだろう)、そこに男性器も女性器も存在しなかった。何処かで誰かが言っていたが、天使は本当に無性だったのだ。
年齢は十二、十三、もしくは十四か。人間の外見に当てはめるなら、だが。
そんな彼女を私は『アンジェリカ』と呼ぶことにした。便宜上とはいえ、女性名を付け、三人称も女性のものにしたわけは、単にこの美しさを男のものとするのが嫌だったという私的感情に過ぎない。これが男であるのなら、女はもう形無しである。
「どうしてアンジェリカは地上に来た?」
これは、私が彼女を天使であるとどうにか認めた後に最初にした質問である。マグカップに入れた紅茶を物珍しそうに啜りながら、天使はそっけなく答えた。
「天が墜ちている。なら、天に住む私たちも落ちて不思議はない」
降りてきたのではなく落ちてきた。その答えは得心がいったが、同時に落胆もした。この世界は、天に住まう天使が落ちてくるほどの事態に見舞われているのだ。すなわちそれは世界の終末が真に迫っているのだという証明に他ならないと感じた。
事実、そうだと彼女は語る。
「もう少し……もう少し遅ければ」
思わず私は呟いた。現在、この世界の技術力は大気の外に出るところまで達している。しかし、そこまでだった。SF小説にみられるような他の星への移住計画はもちろん、宇宙居住施設の建設すらも始まっていなかったのである。
つまり、我らには逃げ場がない。支柱を補修しながら、天が地に墜ちていくのを絶望のうちに眺めていくことしかできない。
悔やまれるのは、実現可能な段階はすぐそばまで見えていたこと。幻想が現実になる一歩手前で、この事態である。技術の革新を世界が怠った、なんてことはないだろうが、間に合わせることはできなかったのだろうかとつい思ってしまう。
天使、と来たので、これは聖書にある神の審判なのかと尋ねれば、アンジェリカは否と答えた。これには我らが関与していないから、と。もしこのような事態を迎えていなければ、いずれ最後の審判を迎えていたかもしれない事実に少し怖気が走ったのは、天使である彼女には秘密である。今迫る天変地異も怖いが、神の怒りに触れた世界も恐ろしい。それに目の前の天使が参加していたかもしれないということも恐ろしい。
ともあれ、アンジェリカはある一種の遭難者であった。行く宛てを問えば無いという。先程私は逃げ場がないことを嘆いたが、それは彼女たちも同じだったのである。
「とりあえず、ここに住む?」
世界の終わりを独りで過ごすことに怯えた一人暮らしの申し出に、彼女は頷いた。
「ニコルは何を作っている?」
三角フラスコの中で撹拌子によって掻き混ぜられている溶媒中の粉末を眺めながら、アンジェリカは問う。私の職場、その実験室。日中一人は退屈だからと強引に職場までついてきた彼女は、すぐに職場に馴染み、仕事の邪魔をしないのを条件に職場内を動き回る許可を得た。人間社会では通常ありえない許可が下りてしまうのは、彼女が天使たる所以ということだろうか、と私は呆れたものだ。
そんな彼女は、長い金の髪を束ね、子供のようにスターラーの前に貼り付いている。白いローブも目立つので、私が現世の服を貸した。着古したロゴ入りTシャツとジーンズ。美人は野暮ったい服も着こなすらしい。着る人物が変わっただけなのに、可愛いと好評である。
「宙に浮く固体を」
美醜の理不尽さはさておいて、私の研究である。
世界は今、この危機を脱する術を求めている。そのために、世界中の科学者が尽力していた。ある者はこの星を脱する術を求め、ある者は天を再び浮かすことを考えた。私たちが追求するのは後者である。
私たちが考えているのは、宙に浮く固体を作り、板やドーム状にして天を押し上げようというものである。天柱は天を“点”で留めているため、塔に掛かる負担が大きい。しかし、それを“面”にしてやればその負担が軽減できるのではないかと考えているのだ。
現存する固体ではだめだ。それらは重力に引っ張られる。天を押し上げる板が完成しても、いずれ自重で落ちるだろう。だから我々が目指すのは、反重力の性質を持つ物質となる。
私は、これには実に苦労を強いられている。なにが大変って、基軸となる理論が物理分野なのだから。化学は物理と無関係ではないのだが、私は化学分野の中でも得手不得手が激しい人間であり、特に物理化学や量子化学を苦手としていた。エントロピーとエンタルピーの違いをかろうじて理解できている程度だというのに、それ以上は勘弁してほしい。
因みに、この試みとして、他所ではホバーやリニアの原理で浮かす、などといったものもあるらしい。果たしてそれが実現したとて、安全性が疑わしいところである。
「実現しそうか」
それは淡々としていたが。込められているのは期待だったのだろうか。天の墜落に真っ先に被害を受けたのは天使たちである。きっと己の故郷に帰れることを望んでいるのだろう。
しかし、これに良い返事はできなかった。気休めの言葉を吐くことすら憚られるほど難航していた。前例のない新規の物なだけに、手探り状態なのである。
一応机上の理論はある。それを実現するまでが、とにかく難しい。
そう告げると、彼女は、そうか、とだけ呟いた。
「何か案はないか」
行き詰まれば、とにかく何でも意見が欲しいものだ。こういうことは案外専門家以外のものがヒントをくれたりする。世の大発明に理論構築の結果でなく偶然から生まれたものが多いことを考えれば、素人の意見だって馬鹿にはできない。
アンジェリカは答えない。
押し黙った背中を見て、私はふと尋ねた。
「天使はどのように空を飛ぶ?」
天使はこれまで私たちの世界での常識の生き物ではなかった。ならば、違う法則があるのではないか。期待を込めて私は言った。
「鳥と同じように」
これにはさすがに目を見張った。羽ばたき、気流に乗れるというのか。しかし、それは鳥の体重が軽いから可能なのであって、人間と同じ体格の天使ができるとは思えない。軽めの体重といっても体が大きい以上限度があるはずだが。
「形而上の存在すら重みを持つ事態だということだ」
疑問を焚きつけ、返ってきたのはそれだった。意味を捉えかねた。単純に、天使には重みなど存在していなかったから、重力に関係なく飛べたということなのか。それとも何か他に意味があるのか。
結局言葉の意味は分からなかったが、何かヒントを得たような気がした。
一週間後、私はアンジェリカに懇願し、羽根を幾つか分けてもらった。天使の羽根は身体の一部、さぞかし抵抗があったのではないかと思ったら、あながちそうでもないという。訊けば、髪の毛を求められるのと同じなのだそうだ。数本ならそうでもないが、多く求められればさすがに困る。抜くとき微かな痛みがあるが、躊躇うほどではないという。
して、天使の羽根だが、貰ったうちの二枚を他所に渡し、専門家に分析してもらうことにした。化学組成、遺伝子配列、物理特性……それらから現存する物質と相違する点がないかを見てもらう。結果を待つ間ぼんやりしているわけにもいかないので、貰った分を使い切らないように気を付けながら、我々の研究の材料にさせてもらった。刻んで細かくして化学物質を中に入れてみたり、逆に溶液に溶かして現存する物質に合成させてみたり。熱処理、分離、とにかくいろいろやってみた。
結果、特に目新しい変化は見られなかった。分析結果のほうも、新しい物質や特性を見つけることはできなかった、もしくは解明できなかった、とあった。ただの羽根ではないことだけはわかった、と報告書には揃えて書いてあった。曖昧で無責任な報告である。
それにしても、これだけやって何もないとはどういうことだろう。形而上のものを形而下のものに当てはめようとしたのが悪かったのか。そもそもそんなことできたのか。
研究など遅々として進まないもの、成功よりも失敗のほうが比べ物にならないほど多い。そうと分かっても、落胆せずにはいられなかった。墜ちてくる空。補修と補強を繰り返し、姿が変わっていく天柱。時間がないことなど明らかだった。
失敗している余裕はない。けれど成功どころか手掛かりも掴めない。
焦りが私たちを追い詰める。同僚一同、悲嘆に暮れた。
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