都合の良い奇跡なんて、起こらない。

とある奇病にかかった女性の話である。
彼女の脳内には枝が広がっているという。枝の先には蕾(つぼみ)があり、その蕾が花開くとき、彼女は死に至る。

病気の進行を止める手段はただひとつ。
『書き続ける』こと。

そんな彼女を、一人の青年が支える。
彼は、学生時代に彼女へ片思いをしていた。しかしその想いを告げることはできないままだった。
数年ぶりに彼女と偶然の再会をした彼は、彼女の病気について知ることになる。

青年の申し出により、女性は生活を一変させる。
実家を出てアパートを借り、『小説を書く』ための生活が始まる。

青年が家事などの生活サポートをすべて行い、女性はただひたすら『書く』ことだけに集中する。
外出はせず、家にこもり、人ともほとんど会わない。
食事はパンやおにぎりで、熱いものは冷ますのに時間がかかるため、おかずは冷めたものばかり。
力尽きて眠りに落ちるまで、活動エネルギーのほぼすべてが『書く』ことだけに費やされる。

創作をしている方の中には、そういった生活に憧れを抱いたり「羨ましい」と思う人もいるかもしれない。
しかし、凡人である私は「自分ならもっと人間らしく生きたい」と感じた。


さて、この作品の内容をざっと説明させていただいたが、この簡単なあらすじだけで読んだ気になるのはもったいない。
ストーリーもさることながら、『文章そのもの』も魅力的な作品である。
一文一文ごとにピンと張り詰めた空気が漂っていて、読むごとに追い詰められてゆくような緊張がある。

ひたすらに丁寧な美しさが重ねられてゆく。
「風景が頭の中に浮かぶ」というよりは「頭の中にある情景をそのままトリミングして文字に変換している」印象を受ける文章である。
そのため、ひとつひとつの場面が鮮烈で、リアルさよりも美しさが勝っている独特な作風である。

個人的には、
「店内の明るさが階段の行き止まりにこぼれていた。」
「雨降りのリズムで打ち出されていく文字」
「やっと得られた糸口を大切に握りこむように、選評を額に入れて壁にかけた。」
「私の死後は君の余生であったらいけない。君の命が真に始まるのはこれからだから」
「生きていたなんて冗談のように人形めいていた。」
などの文章が、特に印象深い。

その一方で、展開はどこまでも現実的である。
都合の良い奇跡なんて、起こらない。
あらかじめ決められていた運命へ向かって、物語は大河のように流れてゆく。
そういう点で『安心して心を預けられる作品』だとも思う。


私が初めてこの作品を読んだのは、もう四か月以上も前のことになる。
その頃の私には、なぜ彼女が『書く』ことを選んだのか、まるでわからなかった。

たしかに、書くことで彼女は生き長らえたかもしれない。
しかし、家族とも会えず、友人とも会えず、思い残したことをするわけでもなく、ただパソコンに向かって文字を入力するだけの日々。
その状態は本当に『生きている』と言えるのだろうか。
私なら、行ってみたい場所や好きな土地へ旅行し、あとはいくつかの手紙を遺して最期を終えると思う。

――なぜ、彼女は『書く』ことを選んだのか。
これは、私の中でずっと疑問だった。

しかし、今回レビューを書く際に読み返して、ようやく理解した。
どんな状態であれ、彼女は『一日でも長く「生」を繋ぎ留めたかった』のだと。

青年と再会したとき、彼女はどう思っただろう。
「自分はもうじき死ぬ」とばかり思っていたのに、「もしかしたら生き延びることができるかもしれない」という希望が眼前にちらついた。
そのとき、彼女はすがるように『生』へ向かって手を伸ばした。その姿は本能的ですらあり、小説を書いている彼女の姿とも重なる。

自分に向けられている好意を知りながら、それを利用した彼女。
おそらく利用されていると解っていながら、彼女に尽くした青年。
二人の特殊な関係性が、この作品の魅力のひとつだとも思う。


物語のラスト、青年は女性に向けて問いかける。
苛立っているようにも途方に暮れているようにも見えるその問いかけは、まるで焼印のようにはっきりと心に残る。

その言葉は、これから先も私の心に在り続けるのだろうなと、そんなことを思う。

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