1-4:魔獣化の呪い

「静かに」

 ノアンが私の耳元に来てささやいた。私は右手で鼻と口をおおって、早まる息づかいが外へ聞こえないようにする。

 頭を木に当てないように見回したところ異状はない。流石に隠れ家の中へは入ってきていないようだけれど、確実にこちらへ迫っている気配がする。

「灯火……魔獣のしるしナノ」

 密集する木々のすきまから外をうかがう。しばらくして視界の隅に入ったのは──あやしく揺れる紫色の炎。どうやらあれは魔獣であることを示すものらしい。


 通り過ぎる大きな足音を聞きながら、私はノアンに耳打ちする。

「あの、これ、逃げた方がいいんじゃ」

「大丈夫ナノ。ここで静かにしていればやり過ごせるノ」

「でも……」

 確かにここは「安全な場所」と案内されたけれど、どうしても不安を拭えない。

 とはいっても下手に動くのもそれはそれで危険だから、結局は言われた通りにすることが最善になる。私はひたすら押し黙って危険が過ぎ去ることを祈った。

 すると。


「ああ、なんと愚かなこと。実に哀れな。そしてとても可愛らしい」


 ────誰?

 すんでのところで口には出さず、物音も立てずに済んだ。けれど、今の声は何だったのだろう。すぐ近くからまったく聞き覚えのない声が聞こえた。

 ノアンがいる側とは真反対の何もないはずの耳元で。スローモーションがかかった、年老いたお婆さんのような声だった。

「ノ、ノアン、今なにか聞こえ──」

 ひそめた声でとっさに尋ねようとすると。


 ぎしっ、ぎしぎしぎしぎしぎしぎし。


 周りをおおっていた枝という枝が、私めがけて次々にねじ曲がる。

「! ミサキ、そこから離れるノ!」

「え──」

 気づいた時には遅かった。数えきれないほどに束ねられた枝は私の胸をなわのように囲って、そのまま背後の幹へ体を押しつけて絞め上げていく。

 じたばたする私の頭上で、ほのかに炎が光る。さっきまでもたれていた太い幹の内側で、禍々まがまがしく揺らめく魔獣のしるし・・・・・・が。


「カシマール、しっかりするノ! 正気に戻ってナノ!」

 魔獣化してしまう生き物は、植物も例外じゃなかったんだ。

 痛い。苦しい。何もできない。

 うろたえるノアンの叫びを受けても、カシマールは絞める力を強めるだけだ。

「ノアン……たすけ……」


「──もちろんナノ、ミサキ。約束は守るノ」

 たまらず声をしぼり出すと、ノアンは応えるように深呼吸をして。

「ミサキ、気をしっかり持つノ。私から目を離さないでナノ!」

 今も悔しげに歯を食いしばったまま、小さな両手を前へかざす。すると、足元の落ち葉がせわしく踊りだす。やがて生み出された風は大きく渦を巻いて、

「たあああっ!」

 ごう音とともに、背後へ一気に放たれた。

 みしみしみしみし、と圧力を受ける音が悲鳴のように響く。私を縛っていた枝は幹から外れたことで力を失って、

「ごめんなさい……放してくれてありがとう」

 私はかろうじてカシマールから離れられた。

「ノ、ノアンも。ありが──」


 お礼を言おうとしたその時。ノアンを包み込んでいた淡い光がふと消える。

 その直前に、小さな体がかたむいて落っこちる瞬間が見えた。

「ノアン!」

 私はとっさに体を起こして、落ちる先を狙って手を伸ばす。生きているにしては毛糸玉のように軽いその体は、無事に両てのひらにすとんと受け止められた。


「あー危なかったノ! ありがとうナノ」

 それからすぐに、手元から安堵したような声が聞こえた。良かった。体調を崩したワケじゃなかったみたいだ。

 ただ、暗い中で目をこらして見ると、ノアンの背中からは特徴的なはねがすっかりなくなっている。

「ど、どうした、の。なんで急に」

「──ごめんナノ、ミサキ。私、しばらくは魔法を使えないノ」

「え、なんで」

「さっきは魔獣にさえぎられて説明しそびれたけど、私はその気になれば大きな風を起こせるノ。ただそれは魔力まりょくの消耗が激しいから、一日二回も起こせば魔法をまったく使えなくなるノ」

 早口で教えてもらって大体分かった。つまりスマホでいえば充電が切れたということだろう。

「けれど、なんで翅までなくなったの?」

「あれも私の魔法だからナノ。──って、悪いけどこれ以上話している場合じゃないノ!」


「グルルル……」「グウウウ……」「グアアウ……」

 はっとして辺りを見回す。すると狼の魔獣──それも三匹が横に並んで、紫色の目でこちらを睨んでいる。

 隠れ家をおおっていた木々は強い風に飛ばされたらしく、無防備な私たちの姿は丸見えだ。

「今すぐ逃げるノ!」


| |   私はすぐにその場から駆け出した。

| |   速い移動手段をなくしたノアンは、私が

| |  手で包んだまま運んでいくしかない。

| |  「大丈夫ナノ? 走れるノ?」

| |  「うん……けれど、逃げるってどこへ」

| |  「ひとまず、来た道を逆走するノ。行き止

| |  まりは避けるノ!」

| |  「ひとまずって、明確なアテは──あっ」

| |      _    | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|

|   ̄ ̄ ̄ |   |止|   | |  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄狼が迫ってくる…… ̄ ̄|  |

| 「ミ| ̄ ̄サキ?」| |   | |   | |        |  |

|止|  | |   |  ̄ ̄ ̄   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄   |

||||||  | |     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄足を止めたらもう捕まっておしまいだよ……! ̄|  |

||||||  |  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  |

||||||  |止| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄「どうなっているの? 行きの時は通れた道だったのに」 ̄ |  |

||||||  ||||||  不平が口を衝いたその時、  |  |

    ||||||| 正面の道が倒れた木でふさが  |  |

      れているのが見えた。     |  |

| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  |

| | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄「ま、まだ追ってくる!」 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄「グルルウ!」「ガアウ!」「グアアウ!」 ̄ ̄

| |   とっさに脇道を見つけたから良かったけ

| |  れど、今でもびっくりしている。

| |  「なんで、いつの間に木がこんなに」

| |   最初に走り抜けたはずの入り組んだ道じ

| |  ゅうで、たくさんの倒れた木々が散乱して

| |  いる。来た道を戻ってひらけた場所に出る

| |  つもりだったのに、倒木たちがその道筋を

| |  めちゃくちゃに変えてしまっている。

|  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄「ひどすぎるノ……森を支えている木なのに。一緒に生きる仲間なのに」 ̄ ̄| |

「きっと魔獣が荒らしたからナノ。獲物を探 | |

し当てる為に」「獲物って、私たちを?」  | |

 それだけじゃない。さっきカシマールが魔 | |

獣化したように、きっと他の草木たちも…… | |

|止 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄「カシマール、後で必ず帰るノ」 | | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄「そう……だね」 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|

| | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄魔獣が私を追って森を荒らしていく| 。 | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄……私のせいで。 ̄ ̄| |

| | 「ルルー!」 | |  魔獣との距離 | |

| |  | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | がいっこうに離 | |

| |  | | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄「いたら返事をするノ!」 れない。    | |

| |  | |  ノアンが光る翅を失った今、| |

| |  |  ̄ ̄| 私はまっ暗闇の中をアテ | |

| |   ̄ ̄「ルルー| !」| もなく走り続けている。 | |

| |    | |  そんな中、ノアンは手 | |

|  ̄ ̄|  | | の中からしきりに何かを | |

 ̄ ̄「ルルー| !」|  | | 叫んでいる。      | |

| ̄ ̄ |  |  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|  | |

| 「ル| ̄ ̄ルー!」   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄「みんな聞いて、お願いナノ! 私たちを助けて| !」|  | |

| | 「ノアン、ルルーって……」 | |  | |

|  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄    ̄ ̄  |

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄「ノアン……誰も……こな」「ルルー! ルルー! 他のみんなも! 私はここナノ!」| |

「カシマールを動けるようにした、私の  | |

仲間ナノ。彼女に助けてもらうノ」    | |

|止 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |

 ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄「ルルー! みんな! 返事をするノ!」 「わ、私……も」 ̄ | |

  |止|  | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  |

    ̄   | | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄「ル、ル……ルー、だれ……か……はあっ」 ̄ ̄

| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |  「ルルー! ルルー!

| | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄「はあ……はあ……」 ̄  いたら返事をするノ!」

|  ̄ ̄|  必死に叫ぶノアンの声は、それでも

 ̄ ̄「ル……| 」 | 夜の静けさに溶けこむばかりだった。

| ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄止|

| | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄「ありがとうナノ、ミサキ。でも無理しないでナノ」| | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

|   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  |

| | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄「今は逃げることが最優先ナノ!」 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


「はあっ……はあ……はあ……」

 足元も見えない中を走って、見境もなく走り続けて。もはや自分たちがどこにいるのか分からない。


「グルルウ!」「ガアウ!」「グアアウ!」

 けたたましく吠える狼たちに追い立てられて、ただ走れる道を見つけては走り続ける。

 逃げても逃げても後ろとの距離はむしろ縮まっていく。少しでも立ち止まって捕まれば殺されるだけ。私はただひたすらに進むしかなかった。

 だから自分が今、切りたった崖の上に来ているとは気づかなかった。

「あっ──」


「ミサキ!?」

 ノアンの呼ぶ声を受けて、反射的に左手を崖の淵にかけた。心もとない握力を支えに宙吊りになってから、やっと自分が足を踏み外したことを思い出す。

 真下から冷たい風が流れる。並んだ六つの炎に上から照らされたことで、今の絶体絶命な状況をはっきりと理解した。


「ミサキ、何が起きているノ?」

 右手の中にいるノアンが尋ねてくる。良かった。なんとか放さずに守れている。

「の、のあ、ノアン、こ、このままじゃ落ち……」

 安心する心とは裏腹に、口は思うように動いてくれない。都合の悪いことでも積極的に教え合おうって、逃げる前に決めたばかりなのに。

「え、えっと、そうだ……ノアン、風の魔法は」

「あれは丸一日かからないと使えないノ。大変なのは分かるけど、こればかりはどうしようもないノ」

 じゃあどうすれば。

 不安にさせたくなくて黙るより他に何もしようがなくて、私は現実逃避をするように辺りを見回す。すると。


 ぶら下がっている背後に、手が届きそうなもう一つの崖。その上から垂れた太いツルが目に留まる。

「グルルル……」「グウウウ……」「グアアウ……」

 不気味なくらい冷静になって頭を回す。私がつかんでいる側の崖にこの狼たちがいるなら、反対側へ渡れば追っ手から逃げられるかもしれない。体力に自信はないけれどツルをたぐれば、なんとか地上へ上がることもできそうだ。


 けれどその為には、右手をひらいてツルを掴まなきゃいけない。

 つまり、ここでノアンを──


「ルルー、みんな! 助けてナノ! 魔獣たちに襲われているノ!」

 考え込んでいた意識を、ノアンの黄色い声が引き戻す。途端に、彼女を殺そうと考えたことに罪悪感がつのる。

 けれど他に助かる道がない。そんな後ろ向きで現実的な論理を、ノアンのSOSは真っ向から否定するようだった。


「ミサキ、今が危険な状態であることは分かったノ。だからこそ、ここは諦めずに仲間を頼るべきだと思うノ」

「……無理だよ、ノアン。助けなんて、さっきから誰も来ないじゃん」

 左手が痛くて仕方ない。このままじっとしていて何も来なかったら、すぐに力尽きてノアンも私も助からない。

「ルルー! 私ナノ! 三匹の魔獣がすぐ近くにいるノ! はやく助けに来るノ!」

 森は魔獣たちのせいで荒れ放題だった。きっと仲間たちもあの森にいただろうから、うんと巻き込まれて大変な思いをしている。そんな中でわざわざ助けに来れるとは思えない。

 なのに、なんでノアンは。

「誰か! 誰でもいいノ! 誰か助けてナノ! ……お願い、ミサキも」


 なんでそんなにも仲間を信じられるの?


「私たちを信じるノ、ミサキ! どうか助けを呼び続けてナノ!」




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