1章:迷いの森の道標

1-1:目覚め

「う、うん…………?」

 うす暗い闇の中で、私は仰向けになって寝ていた。

 木のざわめく音とともに風が吹いて、草木と土のにおいを連れてくる。顔や手足に触れる芝生がこそばゆい。

 時間が経つごとに少しずつ感覚が冴えて、今いる場所が外であると分かってくる。


 滲むような視界でやっと見えたのは、まったく覚えのない夜の森の景色。遅れて焦りがやってきて、私はがばと上体を起こす。

「え……」

 突然のことに戸惑いつつ、首を回して周りを見る。

 足首を埋める深緑色の草原が、私を中心に遠くまで広がっている。その奥には木、木、木、木。

 うっそう鬱蒼と茂る木々ばかりが立ち並ぶ。辺りには明かりの一つも見当たらず、建物らしい影もない。


 どうやらここは、知らない森のど真ん中らしい。

 ──なんで私がこんな場所に? こうなった経緯がまるで分からない。

 今までの私は何をしていただろう。順を追って思い出そうとするけれど、変わったことをした記憶はない。していなかった記憶もない。──あれ?

 何をしていただろう。確かいつも通りに、いつも、どおりに…………いつも通りってなに?


 あれ、思い出せない。

 

 私の家ってどこだっけ。今まで何をして過ごしてきたっけ。なんで森にいたらおかしいと思うんだっけ? 全部、忘れてしまっている。

 なんでだろう。

 急いで頰をつねる。何も起こらない。

 今更夢だなんてオチを願うあたり、本能が異常を訴えているのがよく分かる。


「えっ、と……おーい! おーーーい!」

 私のように連れてこられた人か、事情を知っている人が来てくれるかもしれない。そう思い声を上げてみたけれど反応はない。

 両手で体じゅうをまさぐり持ち物を確認する。何もない。食べ物も水もスマホもない。

 白っぽいブラウスに桃色のミニスカート、赤の真新しいパンプスといった、野遊びには相応しくない服装が身を包んでいるだけだ。


 前触れのないサバイバルに理解が追いつかない。無意識に息が乱れて目が回ってくる。このままここにいるのは良くないと分かってはいるけれど、頭も体も休みたがっている。何も行動に移せない。

 突然がさがさがさ、と後ろの茂みが揺れて思わず耳を塞いだ。不気味なくらい静かな中で呆然としていたから、少し物音がしただけでも余計に怖くなる。──待って、茂みが揺れたって?

「あっあの! そこに誰か


 っいるん、です、か…………」


 振り返ったところで、私は固まった。人が来たと思って掛けようとした声は尻すぼみになる。茂みの奥から現れた「それ」を見た時点で、まだ助かるという望みは一瞬で断たれたからだ。


「グルルルルル…………」


 爪の鋭い四本足、生え揃った牙、逆立った黒い体毛を持つ一匹の猛獣が、うなり声とともに近付いてくる。

 オオカミだ。

 それに何やら普通と違う。ただでさえ鋭い両眼には紫色の炎が灯されていて、暗がりの中で獰猛な姿をあやしく照らしている。──絶対おかしい。顔がめらめらと燃えているのに、まったく熱がってないようだから。

 そうだ、やっぱりこれは夢だ。夢に違いないよ。じゃないとワケが分からない。

「ガウ! ガウ!」

 狼はその眼でまっすぐに私を捉えると、地面を思いきり蹴って突進してきた。距離は離れている方だと内心で侮っていたけれど、まばたき一つした時にはもう目の前まで迫ってきている。

 狼が口を開ける。見ないように目をつぶる。祈る。

 夢だ夢だこれは夢だ早く覚めて覚めて覚めて覚めて覚めて覚めて覚めて────


「その人から離れるノ!」


 次の瞬間、正面で強い風が吹いた。

 ごうと力強い音を立てて空気が揺れる。驚いて目を開けると、目の前でいくつもの芝生が千切れて渦を巻いている。その場にいた狼は体勢を斜めに崩して、渦に巻き込まれるがまま奥へ奥へと離れていく。


 呆気に取られる私へ真横から勇ましい声が飛ぶ。

「そこの人、ここは危ないノ! 逃げ道はこっちナノ!」

 首だけそちらを向けて、すぐに目を見開いた。そこにいた幼気な女の子は手のひらほどの身長しかなく、筋の入った薄いはねで空を飛んでいるからだ。

 まるで洋画でも観ているみたいだ。肩まで伸びた薄緑色の髪は絹糸のようにきれいで、黄色のワンピースはお人形のような愛らしさを思わせる。せわしく翅がはためく度に周りを舞う鱗粉りんぷんは、神秘的なオーラのように淡く光っている。


「何をしているノ? 早くこっちへ来るノ!」

「え、あ、はい、今行きますっ……」

 つい危機的状況を忘れていた私は、慌てて呼ばれた方へ駆け寄ろうとする。けれど、

 あれ、足が動かない。

 恐怖心が抜けていないからか、両足が地面に張り付いて小刻みに震えてばかりいる。

 せめて腰だけでも浮かそうと思って、両手で地面を押そうにもなかなか力が入らない。おかしい。あまりのままならなさに全身までも強張ってくる。

「……大丈夫ナノ?」

 声が聞こえたから顔を上げた。わざわざ駆けつけてくれた妖精の女の子が上から覗き込んでいる。

 見るからに不安そうな表情を浮かべているけれど、きっと今の私も同じようになっている。狼がまた襲ってくるのに戻ってくるなんて、やっぱりおかしいから。

「おお、落ち着いてナノ。意識は確かナノ? 自分の名前は言えるノ?」

 情けないことに心配をかけてしまったようで、こちらの様子を伺ってくる。

 ──どうしよう、急に名前を訊かれるとは思わなかった。記憶がないなんて正直に言ったら余計に不安がられるだろう。何より状況も場所も悪い。今は話を適当にさえぎって、先に足を動かすことに集中した方がいい。

 でも待って。名前くらいなら思い出せるかもしれない。少し集中すれば、私の名前くらいは。

 名前。名前、なまえ────私の名前。



【名前を入力してください】

 ____________

 | ミ サ キ _ _  |

  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

         ▷ 決定




「……ミサキ」


 ぱっと閃いた名前が口を衝いた。

 そうだ、ミサキだ。菜乃花ナノハナ 美咲ミサキ。それが私の名前だ。


「分かったノ。私はノアン。ミサキ、私の手にしっかり掴まるノ!」

 ノアンと名乗った妖精は力強く頷くと、私の右手を掴んでぐいっと真上へ引き上げた。

 その勢いの良さにつられて両膝も伸びて、自然に腰が軽くなる。びっくりした。小さな体からは想像出来ないくらいに力持ちだ。

 そして私が体勢を立て直す間もなく、鋭く風を切るように走り出す。


「ちょ、待っ……」

 足をもつれさせながら漏らす声は草木を踏み鳴らす音にかき消される。後ろからはまた狼のうなり声と、足で地面を擦る音が聞こえてくる。

「早く! こっちナノ!」

 私の手を握ったままノアンが茂みへ突っ込んでいく。よく見ると目の前の木々には隙間があって、奥に人一人が通れそうな細道が続いているのが分かった。

 正直とっくに息が上がって苦しいけれど、言っている余裕は当然ない。手を取られ引き摺られてばかりいた片足は、知らぬ間に地面を蹴っていた。

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