第16話名無しの悲しみ

 ベッドに寝転がって、ぼうっと天井を眺めていた。


 手足を広げて、重力から自由になる。思考がほどけて楽になる。しかし今日は、どうにも体が重い。


 私の上に、名無しの悲しみが乗っているのだ。


 まるで小さな子どもが母親に甘えるように、悲しみが無言で私に付き纏っている。


 いつからいたのかはわからない。仕事をしている時は気付かなかったのだが、悲しみが私の腰のあたりに抱きつくようにしてまとわりついている。


「あなたは誰?」


「……」


 私は悲しみに聞いてみたが、何も言わなかった。いつもの悲しみは名前を聞くと答えてくれるので、それなりの対処はできる。例えば仕事でミスをしたとか、誰かに嫌なことを言われたとか。そういう悲しみはまだ扱いやすい。


 しかし時々、何も言わない悲しみがいる。


 名前を聞いてみても、呼びかけてみても、何も答えないし何の挙動も見せない。その悲しみはただ「悲しい」という感情しかない空っぽで、何を欲しているのかもわからない。


 ただ漠然と、重たいけれど乾き切ってしまった感情で私を支配している。


 邪魔だから早く消えて欲しいと思うのだが、一方で妙に心が静まるのも事実だった。


 それに、取り憑いているのは悲しみの方なのに、名無しの悲しみの場合は、逆に私がその感情の付属品のように思えた。

 体が付属しているだけの、大きくて静かな感情になった気分だ。悲しみの方が本体で、体がただの容器であるような感覚。


 空っぽの体。冷たい体だけがそこにある。もしかして、体を満たせばいいのかな。


 そう思った時、少しだけ記憶が流れた。


 それは、誰かに慰めてもらっている人たちの映像だ。それは家族だったり、友達同士だったりする。ただ大きな悲しみに覆い尽くされて泣くことしかできない人間たちが、優しい人間に慰められている。そんな記憶。


 泣いている人たちは抱きしめられて、頭を撫でられながら「大丈夫だよ」と優しい声をかけられている。


 この目で見てきたいくつものそんな記憶が、フワッと薫った。


 そんな時、唐突に思うのだ。


 ああ、名前を奪ってごめんね。


 私は私の上に乗った、名前の無い悲しみを撫でながら謝った。謝らなければならないような気がした。多分、昔は君にも名前があった。名前があれば、誰かに慰めてもらえただろう。癒してもらえただろう。だけど私には君の名前を呼ぶ権利が無い。権利が無いと思い込んで、ずっと逃げ続けている。だから、名前を奪ったんだ。呼べないなら、誰にも見せられないなら、名前なんて無い方がいいと思って剥奪した。悲しみなんて、無かったことにした方が楽だと思った。そんなことで悲しみが死ぬわけないのにね。


 弱い人間でごめんね。


 名無しの悲しみには、私の言葉は響いていないようだった。


 そりゃそうか。誰だって長い間名前を呼ばれずにずっと無視され続けていたら、捻くれてしまうよね。


 ごめんね。ごめんね。


 私はただ泣くしかない。


 この子をどうしていいのかわからない。


 誰がこの子の名前を呼べるだろう。

 誰がこの子を救ってあげられるだろう。


 私にはその悲しみを、ただひたすらに味わうことしかできない。

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