第15話父の温度

※このお話は虐待などの暴力描写があります。苦手な方はお控えください。




「ごめん」


 その一言だけを置いて逃げるように自分の部屋に入った。


 自分の温度がわからない。


 背中に母の嗚咽が響いている。母の涙が流れている。声に出さなかった気持ち、部屋の空気の重たさ、頓狂な思考、それから、父の温度。

 そういう訳もわからず混濁したものが、僕の温度をぐちゃぐちゃにする。


 僕は怖くなる。体育座りをして、角ばった膝に顔を埋める。左腕についた、火傷の跡をただなぞる。




 シチューが食べたいと、母に言ってしまった。それが事の発端だった。十二年間、一度も食卓に並ばなかったシチュー。最後に食べたのは、五歳の時。

 僕らがまだ三人家族だった時の話だ。


 父についての記憶はほとんど無い。いや、それでは語弊がある。正確に言うと、記憶に付属しているはずの感情がほぼ丸ごとない。父についての記憶はあるのに、それはまるで雑貨屋に売っているポストカードの景色のように、とても軽薄で無干渉なものだった。


 僕はそのポストカードをひとつずつ手に取って眺めてみるけれど、そこにはただ父と名付けるしかないといったような、男の人がいるだけだった。


 以前、そんな話を彼女にしたことがある。彼女はいつもよりも少し複雑そうな機構の表情を見せた。「そうなんだ」とポツリと言って、ただ、僕の左腕に、その手のひらを重ねた。優しく、まるく、温かかった。これが人間の温度なんだ。漠然とそう思った。あのポストカードの父にも、この温度があったのだろうか。それだけを知っていれば、僕の今は、もっと違っていただろうか。


 僕が知っている父の温度は、もっともっと高温だった。

 それにドロドロとしていて、野菜が混じっていた。じゃがいもや、にんじんや、玉ねぎ。それから、肉のかたまり。


 それらが、鍋から直接、僕の左腕に注がれた。


 いつもと変わらない、平凡な休日の夜の出来事だった。


 熱いより、痛いより、怖いより、母の悲鳴の方が、記憶の中では鮮明だった。


 成り行きはよく覚えていない。ただおそらく、僕がだだを捏ねていて、それに嫌気がさした父が、僕を黙らせるためにやった。キッチンでシチューの入った鍋をかき混ぜる父のズボンを掴んで、揺さぶるようにして泣き喚いていた。何が不満だったのかはわからない。だけどまだ五つの時だ。どうせ大した理由などなかっただろう。いつまでも泣き止まない僕を見て、父はうんざりしたのだろう。


 母の行動や、記憶を繋ぎ合わせた結果、大体そう言うことだろうと結論付けた。


 僕はすぐに病院で処置を受けた。両親は離婚した。父は知らない人になった。母は毎日遅くまで働くようになった。自分よりも、僕を優先してくれる人だった。忙しい中でも、たくさん遊びに連れて行ってもらった。勉強も教えてくれた。僕は母の愛の中で生きてきた。だから父なんてどうでもよかった。


 なのに。


 時々、ふと思ってしまう。


 僕の身体半分を作った人のこと。僕にシチューをかけた男の人のこと。母が確かに愛した人。僕はその人の子ども。その人の血が流れている。


 考えてはいけないような気がしていた。だって僕は、今のままで充分満たされているから。充分過ぎるほど幸せなのだ。もう、何もいらないほどに。


 なのに。どうしてだろう。


 人の思考は不思議なものだ。目を逸らせば逸らすほどそちらの方が鳴り響いてくる。頭からその音が離れなくなる。

 僕は自分の半分を満たす空白に、妙に取り憑かれるようになった。もう十分満たされているはずなのに、そこを埋めなければいけないような気がしてならない。ぼうっとしていると、気がつけば左腕の火傷跡を眺めている。指でさすっている。その凸凹とした肌の部分だけが、父との繋がりのような気がしていた。


 そして、ある日、母に言ってしまった。


「シチューが食べたい」


 咄嗟に出てしまった言葉だった。何も考えず、ただ、そこにあった言葉を、口が勝手に音にした。そんな感覚。自分自身の空白に、僕はそのまま言葉を紡がせてしまった。ずっと見張っていたはずなのに。


 ポトリと言葉が、落ちていく。


 母は一瞬固まってしまって、三回高速でまばたきをした。その間に僕の左腕を、一瞬だけ見た。僕が何を言っているのか理解できないようだった。


 五秒ほど経って、僕はやっと状況を理解した。


 空気は死んだように冷たくなっていた。部屋の静寂が爆発を起こしたように、一気に僕を包んだ。知らない温度の言葉や感情が、母から聞こえてくる。響いている。ただ、僕の元へ飛んでくる。


 母の目から、一筋、涙が流れた。


 その瞬間に、逃げていた。咄嗟にその場を離れた。そこにいられなかった。


「ごめん」


 ああ、僕は。


 僕は、一体何をしているんだろう。


 今まで育ててくれた。母はあの日から今日まで、一人で僕を育ててくれたのに。


 シチューのあの日、僕が何もしなければ。大人しくしていれば。もっと聞き分けのいい子どもだったら。僕たちは家族だっただろうか。今も、父と一緒にいられただろうか。今日も食卓でシチューを囲んでいただろうか。


 母の悲鳴を思い出す。途轍もない剣幕を思い出す。病院にいる間、母はずっと泣いていた。どれほど後悔しただろう。どれほど自分を責めただろう。


 知ってるんだ。


 夜、母がひとりで泣いていたこと。悪いのは父。そんなの分かって泣いているんだ。父と結婚したこと。あの人と子どもを作ったこと。きっと自分を責めていた。全部ひとりで背負っていた。母はそういう人だった。強くて脆い人だった。


 ああ、ごめんね。そんなこと、ずっと前から、わかっていたのに。わかっていたはずなのに。この腕を見ないようにする母の視線も、知っていたはずなのに。


 どうして。


 僕は逃げるように自分の部屋に入った。


 背中に母の嗚咽が響いている。母の涙が流れている。声に出さなかった気持ち、部屋の空気の重たさ、頓狂な思考、父の温度。


 自分の温度がわからない。


 怖い。自分の外側にも、内側にも、どこにも答えがない。何に縋ればいいのかわからない。わからないんだ。何も考えたくなくて、僕はただ、左腕を撫でる。そこに刻印された、確かな温度を弄る。今となってはそれだけが、唯一僕に残された父の温度なのだ。


 傷付けられた人なのに。きっと恨むべき人なのに。


 目を閉じて、指の感触に浸りながら無言で叫ぶ。


 父さん、父さん、父さん……………

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