第14話ふたり
「お姉ちゃん、夜ご飯、置いとくからね」
「んー」
白い扉の向こうから、牛みたいな声がした。いや、本当に牛かもしれない。ここ1週間、私は姉の姿を見ていない。でも一応ご飯は食べているし、深夜にシャワーにも入っているようだ。姉が扉の奥で生きている。それがわかっただけでホッとする。
姉は3年前に自殺未遂をした。
ずっと一緒に住んでいるはずなのに、私の中の姉の記憶は小学生の頃から止まっている。笑うとえくぼのできる姉。私より背の高い姉。休日は一緒に近所の駄菓子屋に行った。勉強も教えてもらった。姉は頭が良かった。一緒にゲームをして喧嘩をしたこともあったっけ。姉といるといつもワクワクしていた。姉とは6つ歳が離れている。だから、いつも私の知らない世界を教えてくれた。
それは良い意味でも悪い意味でも。
私は姉が死のうとするまで、自分から死のうとする人がいるなんて、信じていなかった。自殺という言葉は知っていたけれど、それはどこか遠くの、私の知らない世界の言葉だと思っていた。だから姉が死のうとしたなんて、本当に信じられなかったし、理解ができなかった。
私たちが遊ばなくなったのは、姉が中学生になってからだった。勉強が忙しかったのだ。姉には夢があった。それは医者になることだ。
私のせいだった。
私は小さい頃、臓器をひとつ摘出しなければならないような、大きな病気にかかったことがある。まだ小学校に行く前のことだったから、正直記憶はほとんどない。ただ何となく、白いベットが私の部屋の延長で、私の生活の一部だった、そんな感覚が残っている。痛いとか怖いとか、そういうものは全部、当時何度も入れられた麻酔と一緒にはぐらかされてしまった。
だけど姉は違った。
姉は私の病気のことを、鮮明に覚えていた。
6歳も離れていたら、当然かもしれない。夜中に私が発作を起こして救急車で運ばれたこと。入院が長引いたせいで、家で何度も一人で過ごしたこと。お見舞いに行った時、私があまりにも痩せてしまっていて、死んでしまうんじゃないかと本気で心配していたこと。
「私、お医者さんになりたい」
姉が私にそう教えてくれた時、そんな記憶を話してくれた。
私は素直に応援しようと思った。だけど、言いようのない罪悪感が残ったのも事実だ。
医者になるのは簡単じゃない。
姉は良い大学に入るために、毎日必死で勉強していた。ご飯を食べる時間も、学校に行く時間も、私と遊ぶ時間も全て勉強に奪わせた。楽しいことも面白いことも、『興味』という言葉を自分で壊してしまったように思えた。姉にはメーターが0と1しかない。やるか、やらないか。やると決めたら絶対に曲げない。できるまで絶対にあきらめない。
私はそんな姉が怖かった。だから自分はそこそこに勉強して、そこそこに遊んで、そこそこ楽しい、そこそこの人生を歩んでいた。
そんな0と1の生活が続いた後、姉は大学受験に、見事失敗した。
当然のように浪人して、翌年にもう一度チャレンジしたけれど、それも失敗した。仕方なく、滑り止めで受かった大学に通うことになった。
私立の大学だった。うちにあまりお金がないことは姉も私もよくわかっている。姉は奨学金を借りて、大学に通い始めた。
大学に入ってからも、姉は止まらなかった。来る日も来る日も勉強していた。受験に落ちた時でさえ、表情ひとつ変えずに自分の部屋に勉強しに行った。どうしてそこまでできるのか。姉はもしかしたら機械なんじゃないかと思ったことすらあった。
一方で、私は学校生活をそこそこ満喫していた。私は姉のようにはできなかった。そこまで頑張れないのだ。それに私は、そんな自分に納得している。私はこれでいいのだ。
心のどこかで、姉を軽蔑していた。なんとなく、姉がこうなったのは私のせいなんじゃないのか、そんな気がしていた。だから、心の一方では頑張る姉が嫌いだった。脅迫されているみたいで嫌だった。
もっと楽に生きればいいのに。心がそんな声を発するたびに、私はそれを、充実した日々で掻き消した。それに、術後の身体の方も順調で、定期的に検査はしているけれど、特に悪くなったことはない。手術の傷跡も随分小さく、目立たなくなった。
私は結局、それなりに楽しい高校生活を終えて、そのまま就職することにした。姉は相変わらず壊れたように夢を追いかけていた。
私は姉と違って叶えたい夢もないし、毎日がそこそこ楽しくて、そこそこ充実していれば幸せなのだ。姉が頑張っている分、自分ははやく働きに出て、家族の負担を軽くできたらいいなと思った。
そのまま働いて6年。
私が24になった年、姉は自殺未遂をした。
姉は壊れてしまった。大学でも留年して、その後無事に卒業して就職したはいいものの、上手くいかずにそのまま壊れてしまった。
分厚い教材に囲まれた布団の上で、たくさん薬を飲んで倒れていたそうだ。
私は職場で母からの電話を取った。母は何を話しているか分からないくらいに泣いていた。頭が真っ白になった。姉が、じさつ?自殺?電話の向こう側の声が、何を言っているのか全然分からなかった。とりあえずその日はそのまま、急いで病院に駆けつけた。
病室に入ると、かつて自分が寝ていたような白いベットの上で、色んなものに繋がれた姉が横たわっていた。その隣で母が、姉の手を握りながら泣いていた。
私はそこで、姉の姿を久しぶりに見た。同じ家に住んでいるのに。どうして…?どうして。どうして?頭の中はそんな言葉ばかり。あまりにも痩せてしまっていて、このまま死んでしまうんじゃないかと本気で心配した。
怖かった。
そして唐突に理解した。
これだったのか。
姉が味わったのは、この感覚だったんだ。
やっと理解した。姉はこんな気持ちになっていたのか。私はもう大人だけど、姉がこの気持ちを味わったのは8歳の時だ。それも何度も。私は病気の原因が分かるまで、何度も入退院を繰り返していた。その度に姉は、こんな光景を見て、こんな気持ちになっていたのか。
怖かった。ただただ、怖かった。
体が何か、色のわからない、恐ろしい感情で覆われていく。
どうしてお姉ちゃんが…?どうして?なんで助けてあげられなかった?なんで気付いてあげられなかった?こうなる前に、何かしてあげられたんじゃないか。こうなる前に、止められたんじゃないか。どうして何もできなかったの?どうして?どうして……?
わたしのせい?
足が震えていた。頭の先から爪の先まで冷たく固まっていく。椅子に座って小さくうずくまる母の肩をさすりながら、私たちは一緒に泣いた。泣くことしかできなかった。
◇◇◇
その後、姉は無事に目を覚まして、何週間後かに退院した。
でもダメだった。体の病気は治せるかもしれない。でも心は一度壊れてしまったら、元のようには戻らない。
姉はとてもじゃないけれど、働ける状態じゃなかった。家に引きこめるしかなかった。布団の上でしょっちゅうパニックを起こして、その度に暴れて泣いた。ごめんなさい、ごめんなさいと、何度も謝っていた。
罪悪感が姉を覆っていた。
姉はいろんなものに謝っていた。
自分の夢に潰されてしまったこと。折れてしまったこと。普通の生活もできないような状態になってしまったこと。家族に迷惑をかけること。借りたお金を返せないこと。これからどうやって生きればいいのかわからないこと。
母は姉の症状がひどい時、仕事を休んでつきっきりで看病した。そうでもしないと今度は本当に死んでしまいそうだった。姉が罪悪感で潰れてしまう度、母は姉の見えないところで泣いていた。姉を救えなかった、止められなかった自分を責めているのだ。そしてそれを知った姉が、また暴れ出す。どうしていいのかわからない。とにかく薬を飲ませて落ち着かせることしかできない。
家族が、全部が、壊れてしまった。姉に引っ張られて、壊れてしまった。
◇◇◇
私は今も相変わらず、そこそこの仕事をして、そこそこに充実した、そこそこの人生を歩んでいる。
そう言い聞かせて、家に帰る。
家に帰ると母が死んだような顔で天井を見つめている。姉は部屋から出てこない。私は帰りに寄ったスーパーで買ってきた、安い肉を切って炒める。
片手間で洗濯物を取り入れて、溜まった食器を片付けて、部屋の掃除をする。
わざとルーティンを決めている。次はこれ、その次はこれと、寝るまで休む間もなく動いている。そうでもしないと動けないのだ。
そうだ。
もうとっくに限界なんだ。
私だって辛い。もうどうしようもないんだよ。
玄関を開ける時、姉の部屋の前を通る時、ゴミを出す時、トイレに行く時、シャワーを浴びる時、夜寝る時、朝起きた時、会社へ行く時、帰る時……ふとした瞬間に、涙が勝手に溢れてくる。
どうしていいかわからない。何度も膝をつきそうになる。
けれども私はその度に、自分に言い聞かせるのだ。
壊れちゃだめだ。私だけは。私が壊れたら、この家は終わりだ。私だけは、潰れちゃいけない。潰れちゃいけないんだ。
耐えて、耐えて、耐えて、耐える。
でも。
ねえ、お姉ちゃん。
私はあなたのように、自分を追い込めない。私はあなたのようにはできない。私は強くなりたい。あなたのように。あなたがずっとそうしてきたように。あなたは本当にすごいよ。
でも、だから駄目なんだ。
絶対に曲げない。絶対にあきらめない。強い言葉を繰り返すけど、私は結局、挫けてしまう。
ねえ、お姉ちゃん。私たちは極端だ。不器用なんだ、二人とも。今更、遅いのかもしれない。だけど、お互いに補い合えたら。お互いに助け合えたら。止め合えたら。
そんな日は一生来ないかもしれないけれど。
ふたり、支え合えたら、いつかあなたは、その狭い狭い部屋から、出てきてくれるだろうか。
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失敗するかもしれないって思うと、自殺ってそう簡単にできないですよね。
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