夕紅とレモン味
野森ちえこ
怒らせたくて
ひと口に『レモン味の
「
「……ありがとう」
以前、一度だけ断ったことがある。だって、あまりにもすっぱいから。だけど、そのときの山波さんの顔がひどくしょんぼりして見えて――なんだか、断れなくなってしまったのだ。
おかげで、最近は彼女の顔を見るだけで、口の中がキューっとなってしまう。
◇○◇○◇
かよっている大学はちがうけれど、おなじ
なぜそんなに『まじめ』だと思われたくないのか。不思議に思って、休憩時間が一緒になったこの日、なにげなく聞いてみた。
「よくいわれるの。融通がきかない。頭がかたい。冗談が通じない。几帳面でめんどくさい。まじめでつまらない。はじめての彼氏にもそういわれてフラれたし」
ずいぶんないわれようだ。きっと彼女のまわりには、うわっつらのつきあいしかできない人間が多かったのだろう。
こういってはなんだが、ほんとうに頭がかたくて融通がきかない人間には接客業なんてできない。ほとんどいいがかりのようなクレームをつけてくるお客だっているし、なにをかんちがいしているのか、王様気分で無理難題をふっかけてくるお客もいる。山波さんはとても機転がきくし、そういうお客を相手にしてもうまくおさめられるだけの能力があった。
ぼくだって何度フォローしてもらったかわからない。彼女は、頭がかたいわけでも融通がきかないわけでもない。誠実なだけなのだと思う。
そんなことを思ったままに伝えたら、山波さんは真っ赤になって黙りこんでしまった。そして、つぎの日から、なぜだか避けられるようになってしまった。口の中がキューっとなるほどすっぱいレモン味の飴も、この日以降もらっていない。
◇○◇○◇
「え、なに先崎くん、まさか気づいてなかったの?」
「なにがですか?」
夜九時過ぎ。深夜勤務のために出勤してきたこの人は、店いちばんのナンパなチャラ男……に見えて、じつはものすごい愛妻家で子煩悩だったりする。美人の奥さんと、三人の子どもがいるお父さんなのだ。人は見かけによらないということを体現しているような男性社員で、キッチンのチーフである。
「なにがって、そりゃ……いや、ダメだ。おれからはいえん」
ぼくは仕事をおえて、休憩室でまかないを食べおえたところである。これまでは一緒に食べていくことが多かった山波さんはそそくさと帰ってしまった。このところ、ずっとそうだ。
「でも意外だなぁー。先崎くんはそのへん敏感なやつだと思ってたけど。あ、もしかして、まだ失恋ひきずってたりする?」
「なんですかいきなり」
ちょっとムッとしてしまう。ぼくの失恋は関係ないだろうに。
なんか元気ないなーといわれて、最近山波さんに避けられているような気がして――と、つい話してしまったのだ。これは失敗だったかもしれない。
◇○◇○◇
高校生のころからつきあっていた彼女と別れたのは今年の春だった。
大学進学をきっかけに遠距離になって、しだいに連絡がつかなくなっていったのだが、まだ頻繁に連絡がとれていたころ、ある約束をしていた。
ふだんはこちらから彼女に会いにいくことが多かったのだけど、ぼくの誕生日だけは彼女がこちらにきてお祝いすると。それが、彼女とかわした最後の約束だった。だからその日。誕生日当日にこなければ、それがこたえなのだろうと。そう、納得するしかなかった。
ひきずっている――といえば、ひきずっているのかもしれない。彼女との関係がおわって半年。まだ半年なのか。もう半年なのか。よくわからないけれど、恋愛はとうぶんしたくない――とは思っている。
◇○◇○◇
「ぶっちゃけ、山波さんのことはどう思ってんの?」
「どう……って」
気軽に話せる女友だち。信頼できる仲間。
どちらもまちがいではないけれど、なんかしっくりこない。でも、それ以外にないし。
なんだろう。すごく、モヤモヤする。
「よし! 悩める若者にいいものをあげよう」
「はい?」
チーフはいったんロッカールームに入って、またすぐに戻ってきた。手に白い封筒を持っている。
「うちの奥さんが当てたんだけどさぁ。残念ながら行けないわけよ。チビが三人もいるからなー」
封筒の中には、映画の特別試写会のペア招待券が入っていた。最近話題になっている、恋愛小説が原作の映画だ。
どうやら、チーフの奥さんは映画のグッズ目当てで応募したらしいのだけど、願い叶わずチケットが当たってしまった――ということらしい。誰か行けそうな人がいたらあげて。と、持たされたのだそうだ。
「山波さん誘って行ってきなよ」
「え、いや……」
「この映画観たいっていってたし。たぶんOKしてくれるでしょ。んで、帰りにメシでもくってさ。一度、ふたりでちゃんと話したほうがいいと思うぞ」
◇○◇○◇
なんだかうまいことチーフに乗せられたような気がしなくもなかったが、おそるおそる誘ってみれば、よほど観たかったのか、思った以上に反応がよかった。正直なところ、ぼくは原作の小説も読んだことがないし、恋愛映画なんてあまり観たくなかった。だけど山波さんがあんまりにも目をキラキラさせるものだから、ぼくもすこし楽しみになってきた。
なによりも、ぎこちないながらにまた話してくれるようになったことがうれしい。それだけでもチーフには感謝しないといけないかもしれない。
ほんとうは、なぜ避けていたのかも聞いてみたかったけれど、そうするとまた避けられてしまいそうな気がして、結局なにも聞けないまま迎えた当日。
駅で待ちあわせて階段をのぼる。地上に出たところで、思わず足をとめた。
夕映えの空に、線路もホームも、なにもかもが赤く染まっていた。山波さんがちいさく歓声をあげる。
「わぁ……すごい」
空よりも。なによりも。夕日に照らされた山波さんがとてもきれいに見えた。なんだか直視できなくて、ぼくはそっと彼女から目をそらす。
一歩、二歩、足をすすめて、言葉もなく赤い空を見あげた。
なにか、しゃべらないと――とは思うのだけど、言葉が出てこない。会場まで電車で三十分もかかるのに、ずっと無言はキツイ。いつも、なにをどんなふうに話していたっけ。というか、はやく電車きてくれないかな。
「先崎くん。飴、なめる?」
「すっぱいの?」
「すっぱいの」
「山波さん、すっぱいの好きなの?」
「ううん。苦手」
「えっ。じゃあ、なんで」
「先崎くん、やさしいから」
「……?」
「怒ったとこ、見たことないし。ちょっと怒らせてみたくて」
「ええぇぇ」
それですっぱいレモン味? いったいどういう発想? 意味不明すぎて、ぼくは思わず吹き出してしまった。
「だってあたし、この飴をはじめてなめたとき、すっぱすぎて泣きそうになったし」
それはわかる。
確かに、泣くレベルのすっぱさだ。
「さすがに怒るかなーって」
なんだそれ。
さっぱりわからない。
けど――
ずいぶんひさしぶりに、笑ったような気がした。
ものすごくひさしぶりに、楽しいと思った。
「ありがとう」
「え」
「山波さんといると、楽しい」
こぼれ落ちてしまいそうなくらいにまんまるく見ひらかれた山波さんの瞳から、ぽろりとひとつぶ涙が落ちた。
「え、ちょ、なんで。まだ飴なめてないよね?」
ぼくの言葉に今度は山波さんが吹き出した。ぽろぽろと泣きながら、くすくす笑っている。
「飴、なめる?」
山波さんは、オロオロとうろたえるぼくにもう一度確認するようにたずねながら、個包装された飴玉をひとつ差し出した。ほとんど条件反射のようにひらいた手のひらに、コロンと落とされる。
「すっぱいの?」
「すっぱいの」
夕紅に染まる駅のホーム。見ただけでキューっとなるレモン味の飴を口にほうりこむ。山波さんも、思いきったようにパクリと口の中にいれた。
ガタンゴトン――と、遠くから電車の音が近づいてくる。
やっぱりすっぱい。ほんとうに、容赦なくすっぱい。けれど、目をぎゅっとつぶってすっぱさにたえている山波さんはとてもかわいい。
これは……なんだろう。
すっぱくて。
楽しくて。
胸の奥までキュッとなったような気がした。
(おわり)
夕紅とレモン味 野森ちえこ @nono_chie
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