3.ううううえおかきくけ(中略)ん。

 朱実はアルマンコブハサミムシになったが、アルマンコブハサミムシはアルマンコブハサミムシのままであった。朱実がそのことを指摘すると、アルマンコブハサミムシは「それはどうかな」と反駁した。「確かに私はホモサピエンスではないが、ホモサピエンスに匹敵する知性と品性を兼ね備えていると自負しているよ。ホモサピエンスと同等の知性や品性を有しているものを社会という虚構において人と同視することは充分に可能なことではなかろうか」アルマンコブハサミムシが開陳する哲学は小難しく、朱美にはよくわからなかった。

 かくして朱美がアルマンコブハサミムシになったものの、畢竟一人と一匹が二匹にまとまっただけであり、殺人鬼であろうがアルマンコブハサミムシであろうが生活に何ら支障はなかった。二匹はその巨躯と鋏を活かして人間社会を我が物顔で闊歩した。ただ、支障はなかったが影響はあった。同じアルマンコブハサミムシであり、朱美は雄、あちらは雌。二匹はこれまでの漫遊のなか固い絆で結ばれていた。故に二匹が惹かれあいつがいとなり、そのまま本能に導かれて交尾をするまでにさほど時間はかからなかった。その結果、アルマンコブハサミムシは五十は超えるであろう卵を産んだ。卵は白く、まだ穢れを知らなかった。

 一般的にハサミムシの雌は卵や孵化したばかりの幼虫のそばを離れずに子育てをする習性がある。アルマンコブハサミムシも例外ではなく、片時も卵のそばを離れることはなかった。「果たしてこれは愛なのだろうか」アルマンコブハサミムシは懊悩する。「本能に従っただけの行動が社会的規範において偶然肯定されるからといって、どうしてそれが愛と呼べよう。私には愛がわからないよ」

 朱美はこれがいわゆるマタニティーブルーというやつなのだろうと推測し、できるだけ雌のアルマンコブハサミムシが好きな牛丼やハンバーガーを調達した。単独襲撃は以前より手間暇がかかるので大変ではあったが、それでもアルマンコブハサミムシや生まれてくるであろう子どもたちのことを思えばつらくはなかった。朱美自身が牛丼やハンバーガーといった料理を食べたのはずいぶんと前のことであり、もはや味も思い出せなかった。おぼろげにかつては美味しかったという記憶があるだけだ。少し前までは、どうしてアルマンコブハサミムシなどになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気がついてみたら、雄のアルマンコブハサミムシはどうして以前、殺人鬼だったのかと考えていた。その前に小学五年生であったことは泡沫の夢でしかなかった。もしかしたらふと目が覚めて小学五年生に戻るのかもしれないが、そんなことは全く起こらなかった。きっと人間の心が昆虫としての習慣の中にすっかり埋もれて消えてしまうのだろう。雄のアルマンコブハサミムシはいいともわるいとも思わなかった。ただ毎日が現実として連続しているだけだ。

 こうしてアルマンコブハサミムシの二匹多脚は極めて順調に進んだ。二匹の努力は孵化という形で結実する。白い卵からたくさんの幼虫が誕生したのだ。ハッピーバースデー。幼虫はまだ白無垢の体色であった。彼らはこれから何度か脱皮をくりかえして成長することで立派な黒光りする成虫になるのだ。

 二匹は喜んだ。だがここからが真の艱難辛苦の始まりであった。幼虫らは瞬く間に卵殻を食べ終え、更なる餌を要求した。雄のアルマンコブハサミムシは家族のために食糧を調達すべきであったが、ちっとも気が進まなかった。そんなことより他の雌を探して交尾がしたかった。そのことを伝えると、雌のアルマンコブハサミムシが家族愛と食糧調達の必要性について縷々訴えたが、雄のアルマンコブハサミムシには難解すぎた。

 かくして言論による平和的解決は不可能との判断に至り、肉体的言語による解決が模索される。つまり二匹は諍いを起こした。そこに愛はなく攻撃的衝動のみがあった。あるいは雌のアルマンコブハサミムシに宿った人間性が最も強く発露したのはこのときであったのかもしれない。かつて警察官から拝借した拳銃の引金をひいてしまったのだ。ろくに狙いもつけず放たれた弾丸は不幸にも雄のアルマンコブハサミムシの腹部に命中した。その痛みにたえかね絶叫する。雄のアルマンコブハサミムシは恐慌を抱いて遁走した。

 雄のアルマンコブハサミムシは適当な住宅に潜りこみ、幾日も身を休めた。銃創は絶えず激痛をもたらし、じくじくと体液が漏れ出していった。住人だったを食して滋養をつけるがいっこうに傷は治りそうになかった。雄のアルマンコブハサミムシはこのまま単独行動をすることは危険であり、戻って行動を共にした方がよいとの判断をくだした。すっかり重くなった体をひきずるようにして家族がいる棲み処に帰る。しかしそこに雌のアルマンコブハサミムシはいなかった。雌のアルマンコブハサミムシだった残骸が僅かに残るだけであり、ほとんどは飢えた幼虫らの腹のなかに収まっていた。その幼虫らも数が減っていた。そして貪欲な幼虫らにとって負傷して衰弱した成虫はちょうどよい餌であるかのように見えた。幼虫らは雄のアルマンコブハサミムシに群がる。数の力は確かに脅威であったが、雌のアルマンコブハサミムシと異なり、雄のアルマンコブハサミムシは粛然と餌となるつもりなどなかった。襲いかかる幼虫らを蹴散らしてそのうちの何匹かを逆に餌にしてやると、幼虫らは散り散りになって逃げていった。逃げた幼虫らはこれからも危難にさらされ、それでも何匹かは生き残るのだろう。

 幼虫だったを食べ終えた後、雄のアルマンコブハサミムシは静かに地に伏せる。己の体から何かが抜けていくのをただただ感じていた。最後に首をもたげ、口を開く。けれどもその音を聞き取るものはなく、雌のアルマンコブハサミムシだった残骸があるだけだった。

 しばらくして雄のアルマンコブハサミムシが息を引き取る。そうして生命活動を終えた有機物は少女の形をしていた。それは飯野朱美だった。

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変身/錯覚 ささやか @sasayaka

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