2.いいいいいいいいいい以下略

 朱美にとっては幸いなことに、玄関にぶつかるまでに衝撃がある程度分散したため、朱美の強靭な肉体が痛むことはほとんどなかった。これからどうすればいいのだろうかと考えながらシートベルトを外す。ひとまず朱美がなすべきことは軽自動車から降りることだった。

 軽自動車は前方が著しくひしゃげており、衝突の激しさを物語っていた。まだ走行が可能かどうか判断がつかなかったが、これ以上この軽自動車を運転することは賢明ではないと朱美は判断した。

 おい、そこのお前と僅かにひらいた玄関の奥から声が聞こえた。甲高く軋んだ声だった。声の主は明らかに衝突事故を起こした朱美を咎めていた。朱美が謝罪の意を示すと、声の主は家に入るよう促した。その指示に従い、玄関扉をはがすようにこじ開け中に入る。

 いた。黒光りする平たい体に六本の脚と存外長い触覚。そして何よりも腹部の後端からのびる鋏。そこには人間より一回り程度大きいアルマンコブハサミムシがいた。直線的で控えめな鋏の形状からすれば雌であることが一見して明らかであった。

 アルマンコブハサミムシは、朱美が衝突事故を起こしたせいで奇妙な飛び道具を使う青い人間が来てしまう、せっかくの棲み処を捨てる必要がある、と朱美の責任を語った。朱美は再度謝罪した。いかにも朱美は殺人鬼である。しかし、朱美には目がある、朱美には手がある、五臓六腑が、四肢五体が、感覚が、感情が、情熱があるのだ。一般人と同じものを食べ、同じものを飲み、同じ病気にかかれば同じ治療を受けて治すし、同じ夏の暑さや同じ冬の寒さを感じるのだ。だからこそ、朱美はアルマンコブハサミムシに謝罪をし、もしよければ次の棲み処探しを手伝いたいと申し出た。アルマンコブハサミムシは畢竟ハサミムシ目の昆虫でしかなかったが、真摯な謝意を受け入れるだけの度量はあった。アルマンコブハサミムシは了承の意を示した。こうして朱美はアルマンコブハサミムシと同道することが決まったのであった。

 さて。そうと決まれば早速この家を出ることが一つの正解であることは確かでだが、旅路の前に腹ごしらえをするというのもまた一つの正解であった。アルマンコブハサミムシは基本的に夜行性なので、衝突事故で起床したばかりであった。朱美も登校までのひと働きで体を動かしたこともあり、早めの昼食に異論なかった。

 アルマンコブハサミムシが滞在していた家屋には住人の気配はなく、澱んだ臭気に満ちていた。もともといた住人はどうしたのだろうと疑問に思ったが、いないにこしたことはないので、それ以上考えることはなかった。朱美は遠慮なくキッチンまで踏みこみカップラーメンを発見する。朱美は今でこそ名実ともに立派な殺人鬼だが、ほんの少し前まではただの小学生五年生だったのだ。母の家事も大して手伝っておらず、ましてや料理など家庭科の授業くらいでしかまともにやったことがなかった。なのでカップラーメンを見つけたことは朱美にとってまぎれもない僥倖であった。

 朱美はアルマンコブハサミムシにあなたもカップラーメンを食べるか、そもそもあなたは何を食べるのかと尋ねた。これに対してアルマンコブハサミムシは、自分はいわゆる雑食性なので食べたことはないが人間の食べるものは基本的に全て食べられると思う、ただしカップラーメンはその形状上食べにくくて仕方がないので自分は食べないと答えた。

 朱美は不憫に思った。カップラーメンは美味かった。なのでアルマンコブハサミムシも食べられるものがあればいいと思った。一方のアルマンコブハサミムシは寝室で食事を済ませていた。寝室に食料をためおいていたのだ。

 そうして朱美がカップラーメンを食べ終えた頃、インターフォンが鳴った。警察ですけどー誰かいませんかーと声が響く。

 青い奴らだ、とアルマンコブハサミムシが吐き捨てる。あいつらは危険だ。変な武器を持っている。

 確かに警察は敵に回すと厄介だった。暴力に秀でているし、集団的能力を有している。だが朱美が私たちなら大丈夫だと鼓舞すると、アルマンコブハサミムシも同調し、こうして警察官退治をすることが決まった。

 まず、朱美が玄関扉をひっぺがして警察官の前に姿を現す。二人いた。彼らは予想だにしなかった殺人鬼の出現に驚いた。それは致命的であった。すかさずキッチンで拝借した包丁を殺人鬼らしく警察官Aに向かって投擲する。包丁はあやまたずAの胸に突き刺さった。警察官BがAの名前を叫ぶ。イトウとかそんな感じのあれだった。さて。叫ぶという行為は、意識を向け、口を開け、発声し、酸素を消費する愚行であった。少なくともこの時は。何故ならアルマンコブハサミムシがその隙を突いてBを首ちょんぱしたからだ。結果こそ全てを封殺する魔法であった。ついでにAも首ちょんぱして確実に息の根を止めてもらう。朱美は警察官だったから拳銃二挺を拝借した。国家権力の特権たる銃器は今後役に立ちそうだと考えた。

 朱美とアルマンコブハサミムシは互いの健闘を称えあった。タッグを組むことの素晴らしさを実感していた。私たちはいいコンビかもしれないとアルマンコブハサミムシが言い、朱美もそれに同意した。絆が深まる名場面集132ページであった。

 さあそれからが逃避行の始まりだ。いや、逃避行というのは誤りかもしれない。朱美らの認識としては単に棲み処が汚れて食糧が尽きたら次を次をと探しているだけだった。

 ある日のこと、朱美はアルマンコブハサミムシに牛丼をごちそうしようと思い立った。深夜の牛丼屋を襲撃する。店内には片手で数えるに足るほどの人間しかおらず、朱美とアルマンコブハサミムシにとってその数名を過去形に変化することは朝飯前であった。実際アルマンコブハサミムシに合わせて夜行性な生活をしていたので、起床してから最初にとる食事という意味では、調達した牛丼が朝飯であった。

 牛丼大盛つゆだくを食べ、これは美味い、今まで食べたものの中で一番美味いとアルマンコブハサミムシは絶賛した。

 アルマンコブハサミムシが満足してくれて朱美はとても気分がよかった。またやろうと思った。以後はなるべく色んな店を襲撃してグルメ道楽と洒落こむことにした。朱美の知識は小学生五年生レベルであったので、せいぜいファーストフード店やコンビニが関の山であったが、それでも朱美とアルマンコブハサミムシにとっては十分なごちそうであった。

 アルマンコブハサミムシは牛丼に深い感銘を受けて以来、人間文明を積極的に摂取するようになった。コンビニに襲撃したときには食糧のみならず週刊誌や漫画なども拝借して読みふけった。棲み処にした住居ではテレビにかじりつくように視聴した。「生きるとはたたかうこと」アルマンコブハサミムシは流暢な人語を発する。「たたかうとは理不尽に屈しないこと。私たちはちゃんと生きている。そう思わない?」

 朱美はそうだねと言った。もともと小学五年生レベルの読解力と知識しかなかったが、以前にもまして読書やテレビに興味が持てなかった。文字はおろか映像を見ることすら億劫であった。あれだけ好きだったアイドルグループの名前すら思い出せなくなっていた。夜に起き、探し、殺し、食べて、眠る。朱美にはそれで十分であった。服すら次第に着なくなった。食事も調理済みのものより生の食材を好むようになり、アルマンコブハサミムシが人間食をいただく傍ら、朱美は人間だったをいただくようになった。

 それはアルマンコブハサミムシと行動を共にするようになってからどれくらい経った頃であろうか。その日に泊まった棲み処で一睡してから、ふと目を覚ますと、誰かが朱美の名前を呼んでいるような気がした。声に応じて立ち上がると、声は闇の中から頻りに朱美を招く。覚えず、朱美は声を追って歩き出した。辿りついたるは洗面台であり、鏡面に臨んで姿を映して見ると、黒光りする平たい体に六本の脚と存外長い触覚。そして何よりも腹部の後端からのびる大きく湾曲した鋏。鏡面には人間より一回り程度大きいアルマンコブハサミムシがそこにいた。朱美はアルマンコブハサミムシになっていた。

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