変身/錯覚
ささやか
1.あああああああああああああ
ある朝、飯野朱美が気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一人の巨大な殺人鬼に変わってしまっているのに気づいた。その巨躯はベッドからはみださんばかりの大きさで、体を少し起こすとその筋骨隆々たる暴力的肉体が見えた。シーツや掛布団はベッドの下に吹き飛んでおり、たとえあったとしても今の体躯には全くサイズがあってなかった。
これはどういうことだろう、と朱美はいぶかしんだ。夢ではなかった。自分の部屋、少し手狭だが小学生には充分な広さを持った部屋が、先ほどまでの健やかな眠りを守っていた。お気に入りのアイドルグループのカレンダーが壁にかけられ、勉強机には昨夜読み終えたばかりの少女漫画が一冊置かれている。赤いランドセルは五年間の通学によりすっかりくたびれていた。まごうことなき飯野朱美の部屋だった。
ピンク色の装飾がついた時計を見ると、ちょうど七時をすぎたところだった。いつも起床している時間だ。今日は火曜日なので当然これから学校がある。学校に行かなくてはならない。朱美は今日の日直であることを思い出した。まず着替える必要があったが、にゃんこ柄のパジャマは殺人鬼な巨躯を包み切れず、布の残骸と化し、朱美の体にこびりついていた。つまり実質全裸だった。もともと朱美はクラスの中でも下から数えた方が早い身長だったが、そうじゃなくても今の朱美に合う服はなかったに違いない。朱美は股間に違和感を覚え手をのばしてみると、そこには今までの自分になかった奇妙な器官があることに気づいた。ぐねりとした感触には驚いたものの、それがあること自体についてはさしたる驚きはなかった。朱美にとってそれがあることは自分が殺人鬼であることと同様にごく自然なことのように感じられた。もちろんこれまでの短い生涯のなかで殺人を犯したことはなかったが、今の自分が純然たる殺人鬼であることに確信を抱いていた。いや、確信という言葉は強すぎるかもしれない。しかしそれくらい深く根付いた穏やかな認識だった。
何はともあれ、朱美には着ることのできる衣服が必要だった。これは母に相談するべきだ。朱美はごく常識的にごく常識的な判断をくだした。静かに自室のドアをあけ部屋を出る。この時間なら母はキッチンで朝食の用意をしているはずだった。姿こそ見えなかったがキッチンで何か料理をしている物音が聞こえる。
朱美がキッチンまでたどりつき、まさに声をかけようとしたその時、その気配を感じた母が振り向いた。母の表情が日常から驚愕に変わり恐怖をもって叫びとなる。それは殺人鬼と母とを途絶する叫びであった。予想だにしていなかった母の狂態にひどく驚き慌てふためいた結果、朱美は殺人鬼として思わず母の頭部を大きな手でわしづかみにし、蛇口をひねるようにしてぐいとひねった。生理的嫌悪をもよおす鈍い音が鳴り、母の首が百八十度回転する。母の絶叫がとまる。母の生命が終わる。母は死んだ。朱美が殺した。母殺しを認識したとき、朱美に去来したのは後悔だった。それはうっかりガラスのコップを割ってしまったときの後悔によく似ていた。服、どうしようとも思った。
そうして朱美が困惑していると、母の悲鳴を聞きつけた父が肥満体をゆらしてキッチンまで駆けつけきた。父は殺人鬼な朱美と母だったを認めると、母以上に情けない悲鳴をあげた。父を殺すことに躊躇いはなかった。朱美は父の首も蛇口のようにひねり父の命脈を止めた。殺人って意外と簡単だなとだけ思った。算数の宿題より簡単だった。
フローリングに父だったを捨てたとき、朱美は服問題の解決策を思いついた。父の服を着ればいいのだ。肥満体の父のサイズなら今の巨躯でも十分着られるに違いない。
朱美はさっそく父だったから衣服をはぎとろうと手をかけたが、それよりも父の部屋から別の服を拝借した方が早いことに気づいた。なので父の部屋を漁り、適当な下着と服を身につける。幸いにも肥満体であった父の服は筋骨隆々殺人鬼になった朱美にちょうどよいサイズであった。
それから朱美はトーストされていない食パンとヨーグルトを食べてから身支度を整え、くたびれたランドセルを右肩につっかけて家を出る。学校に行くのだ。
小学生の群れにいる朱美は文房具の中にアーミーナイフが混じっているような違和感で、見る者を不安させた。朱美の存在は明らかに異様ではあったが、誰も声をかけることができず、危うい均衡の上に日常的な通学風景が保たれていた。
校舎が見えあと少しで学校に着くというところで、朱美は同じクラスの
ああ、なんということだろう。朱美は瞳がうるんできたのを感じた。こんなつもりではなかった。テレビの話をしながら投稿して、授業をうけて、給食はカレーで、お昼休みはカレシができたばかりの愛紗の恋バナに花を咲かせるつもりだったのだ。こんなはずはなかった。どうして、殺人鬼になったくらいで自分を化物みたいに仲間はずれにするのだろう。朱美の心は悪意なき悪意に傷つけられ悲しみの鮮血を流した。
波奈子ちゃんと名前を呼ぶと、呼ばれた方は眦を決して来ないでと絶叫する。二人の間には決して超克できないであろう断絶が存在した。それを悟った朱美は思わず右肩にかけていたランドセルを全力で波奈子の頭部へ振りぬいた。あぎょべ、という濁った声を残して波奈子は倒れる。その首はあらぬ方向に曲がっており、今すぐ救急車が駆けつけたとしても将来重篤な障害が残るや否やという状態であった。なので朱美は速やかに彼女のもとへ行き体重をかけて細首をへし折った。去年の夏のキャンプで薪を折ったような感触がした。朱美はそのまま波奈子だったの足首を掴むと鞭のように波奈子だったをしならせ、周りの小学生どもをなぎ倒す。波奈子だったはさほど優秀な凶器ではなかったが、殺人鬼の手にかかれば十分その役割を果たすことができた。波奈子だったが劣化してくれば別の小学生だったを使い、波奈子のときのように殺しきれなかったなら自身の手足を用いてきちんととどめを刺す。そうして二桁にのぼる小学生だったを作り上げたあたりで教師やら何やらの大人たちがやってきた。ついでとばかりに彼らも過去形にする。
朱美は自身の行いについて何ら恥じるところも後悔するところもなかったが、しかしこれ以上同じ作業を続けることはいささか疲れてしまうのは確かだった。そんな折に都合よく軽自動車がやってきたので、前方に立ち塞がり急停車させる。そして
運転手の老婆を過去形にして拝借する。鮮やかな手際だった。朱美には運転がわからぬ。朱美は小学生である。けれどもアクセルを踏めば進むし、ブレーキを踏めば止まることはわかった。アクセルを全力で踏みこめば、軽自動車は唸りをあげて適当な二、三人を轢き飛ばした。直進はよい。アクセルを踏んでいるだけで済む。しかし右左折はそうはいかなかった。適切なブレーキ操作とハンドル操作が必要になる。これらを完璧に行うに朱美はあまりに経験不足だった。何せ人生初運転なのだ。やがて軽自動車は盛大にある一軒家の玄関に衝突した。
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