第8話

図書館には長井がいて、週に一度は校正の依頼が来た。

勉強をしていないんじゃないかと疑いたくなるくらいのペースだった。

実際、大学はいけるところに行き、在学中に集中して執筆し、デビューすると豪語していた。


その長井に対して、私の方から原稿を渡したときは、大袈裟なほど目を丸くしていた。


「今まで何十作品校正してあげたと思う?」


突きつけるように渡すと、長井は観念したように私のを受け取った。

A4に8枚、ぎゅうぎゅうに詰め込んだ文字列を長井は眺めていた。

顔つきは次第に真剣になっていった。


このようにして、図書館通いの習慣は続いた。

高校三年生に上がると、嫌が応にも勉強はせざるを得なくなった。

進学しないないよりはした方が良い。

結局はそれに落ちつく。他の子たちと同じだ。


高校三年生になっても杠さんとは同じクラスだったけれど、一緒に話すことはあまりなくなった。

正確に言えば、冬の駅前で別れてから一度も近づいていなかった。

メッセージアプリを通してのやりとりもしない。

本の話も、当然する機会はなくなっていた。


杠さんの小説は四月に出版された。

新しい担任の先生が朝会で話し、杠さんはこれまでよりさらに輪を掛けて注目を集めた。

転校してきてから続いていた人気は盤石なものとなり、卒業するときまで尊敬の視線は絶えなかった。


学業と執筆の両立は想像するだけでも忙しそうだったけれど、卒業の前にもう一冊の出版に漕ぎ着けていた。

大学は私とは違う、東京の私大に行くことになっていた。

普通の学生生活もしておきたいと、雑誌のインタビューで誇らしげに語っている姿を後に見かけた。


同世代作家なんていうと、読書好きはみんな気にするものらしい。

私が進学した大学の、読書サークルの中でも、杠さんの名前はよく話題に上っていた。

私が出身高校を明かすと、杠さんと同じだと言って目を輝かせる人もいた。

明らかに対抗心を燃やしている火ともいた。


私はどちらにも与しなかった。


私はあまり口には出さない。

性格は簡単には変わらないし、変えるつもりも今のところない。

ただ、小説家を目指していることだけはオープンにしておいた。


杠さんに大学の話をしたくなったけれど、メールやメッセージアプリではやりとりしたいと思えなかった。

年賀の挨拶は私の方から送り、程々の文章量の返事をもらった。

機械的でも、販促でもない内容に、少しだけホッとした。


お互いに小説の話はしなかった。

成人式のお知らせが来て、行ってみても、杠さんの姿はなかった。

杠さんの名前自体は多くの人が好意的に口にしていた。

一緒のクラスにいたなんて夢見たいだよね、と誰かが言って、私も一緒に頷いていた。


杠さんの名前は今でも目にする。

大学の図書館や、大学近くの大型書店でも扱ってくれていた。


一冊、二冊を出版して、そのまま姿が見えなくなる作家さんは、今までも何人も見た。

息継ぎのように続いていたブログの更新が唐突に途絶えたこともあった。

十年も前の日付に、待ってますのコメントがぽつぽつ並んでいた。


実力なんて、私からは本当はよくわからない。

時の運があるのだと思う。

杠さんは時流に上手く乗っていた。


メッセージアプリのアカウントはいつの間にか退会済みになっていた。

メールアドレスは試していないけれどおそらく届かないのだと思う。

杠さんという珍しい苗字の女性が私のそばにいたことは、いよいよ私の記憶の中にしか残っていない。

同じ高校出身であるという一応の事実に、目を輝かせる後輩にも、心動かされることはなくなっていた。

 



 卒業間際になって、久しぶりに地元の図書館に行った。

たまたま、夕方からの用事のために時間を潰そうと思った。


図書館は四年前と全く変わらっておらず、隅のテーブルで背を丸めている長井も、顎髭ができている他には何も変わっていなかった。

長井は私を見ると、「あれ、あれえ?」などと声を上げたりしていた。

カウンター奥の司書さんが冷たい視線を寄越して口を閉ざしていたので、私は長井の背をはたいて席に座らせた。


軽く挨拶をしたり、近況を報告して、それから少し、昔の話をした。


「小説か、懐かしいな」


体型はあまり変わっていないけれど、視線は柔らかくなっていた。

まさかと思って聞いてみると、長井はもう小説を書いていなかった。


「嘘でしょ!?」


私が叫ぶと、司書さんの咳払いが聞こえてきた。


「なんで俺が嘘つくんだよ」


「だって」


それまで長井に親しみを込めて接していたのに、急に別人へと変化してしまったような気がした。

目も鼻も口も、長井よりも柔らかくて、確実に違う誰かさんに。


「俺はもう疲れたから」


あれだけ憎かった現実の世間というものが、現実的な質量をもって目の前に迫ってきた。

余裕はなくなっていった。

昔抱いていた情熱も少しずつ薄らいでいく。

現実は自分の内面へと知らず知らず侵攻していて、ふと気づいたときには、そのことを悲しいとも思わなくなっていた。


「平森はまだ書いているの」


自分の経緯を抽象的に語った後、長井は私に尋ねてきた。

一瞬躊躇してから、私は頷いた。間が出来てしまったのは、まだ書けていないからだ。


大学生活は、思ったよりも忙しかった。

一人暮らしを始めていたのもあるし、授業も融通が利かなかった。

社会人になる準備もするようになると、自分のことを考えている時間が増えた。

空想に耽る時間は少しずつ削ぎ落とされていった。


長井と同じだった。


「お前は書けよ」


押し黙っている私に向かって、長井が睨んでいった。


「なんで」


「面白かったから」


 即答された。「悔しかったけど」


高校三年生の一時期、私は長井に校正を依頼していた。

長井が私の小説を褒めてくれたことは一度だってなかった。

いくつも並ぶ赤字の校正に、あの頃の私はめげずに何度も書き続けていた。


「なんで言ってくれないの」


顔を寄せると、長井が逃げるように席を立った。

ちょうどそのとき、遠くから誰かが長井の名前を呼んだ。

私達より年上らしいその人は、長井に親しな顔を向けながら手を振っていた。

私の視線に気づいた長井が、頬を赤らめて頭を掻いていた。


「なんで言ってくれないんだよ」


「いや、言う必要ないだろ、どう考えても」


司書さんが咳き込みすぎて咽せていた。

長井たちがいなくなると、図書館は静かになった。


相変わらず書棚には、たくさんの小説が詰まっている。

私が読むには、あまりにも多すぎる小説たち。

地元の人でさえ、誰も手に取ったことのないものもあるだろう。

いったいどうしてこんなに小説があるのだろう。

誰がこんなにたくさん求めているのだろう。


ひとつだけでも十分だという人もいれば、まったく必要としない人もいる。

それなのに、どうして私はあんなに小説を欲しがって、自分でも作りたいだなんて思っていたんだろう。


足踏みするに足る疑問は多い。

言い訳も山ほど思い浮かぶ。


それでもただひとつ言えることがある。

杠さんは今もまだ、小説を書いている。

私は図書館のひと区画に並ぶ証拠を指で撫でた。



「長井」


図書館を出てから、電話を繋いだ。


「校正、お願い」


昔の私がそのまま、私の内側に潜んでいた。


「待ってた」


長井も変わっていなかった。

よかったと、私の口が勝手に言葉を紡いでくれた。



――了

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チサトのはじまり 泉宮糾一 @yunomiss

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