第2話

杠さんが転校してくる前からずっと小説を書いていた。

友達はいなかった。本を読む人さえ周りにいなかった。


とはいえ、話す人が一人もいなかったわけじゃない。

一人だけはいたのである。


「平森、元気してるか」


長井敦。図書室の主。

放課後に図書室にいくと、同学年の人はいつでも彼の丸まった背中を目にすることになる。


図書室はいつでも閑散としている。

長井がいてもいなくても、この光景は変わらないだろう。

この高校の図書室は、学校の隅に押しやられていて、アクセスがとても悪い。

本好きでもなければまず立ち寄らない空間だった。 


「それなりに」


「上位に入ったんだろ? おめでとう」


上位とは、クラスの人間関係の中で、というような意味だ。


長井は同学年や学校全体における立ち位置に、昔からとても敏感だった。

彼に言わせると、学校の中にはいくつものグループ分けが成り立っていた。

趣味嗜好や性格によるグルーピングと階層制度は、長井の思想にも調和するものであるらしく、彼は好んで使っていた。

いわゆる、スクールカーストだ。上位層が勝ち組で、下位層が負け組。

下位層から上位層になるには並大抵の努力では叶わない。


長井による勝手な区分けに苛立つこともあったけれど、頷きたくなることもあった。

他人との間に目に見えない壁を感じるのは、私にも身に覚えのあることだった。

碌に会話もしていない私は下位層にいる。

杠さんは上位だ。

上位の彼女と接点を持った私は、長井の目には勝ち組に見えたということらしかった。


「何も変わってないよ」


謙遜でなく、本心だった。

私は杠さんと話しているだけだ。

彼女を取り巻く他の子たちと、話が合うとは思えない。

杠さんの広い趣味嗜好の輪の中に、たまたま小説という共通項があって、そこに私が輪を重ねられたに過ぎない。


長井は否定も肯定もせず、曖昧に微笑みながら、確保してある席へと戻っていった。


「今、ちょっといいか」


長井が席から声を掛ける。


時間は放課後、午後に用事はない。

所属している文芸部は、水曜日に会合がある他は、無理に通い詰める必要のない場所だった。


「いいよ」


本を抱えたまま、長井の真向かいに座る。

長井は嬉々としてA4の、コピー用紙の束を差し出した。

片面に4枚分、両面にびっしりと文字が並んでいる。

私は眼鏡をかけ直した。


「久しぶりだから、時間掛かるけど」


「構わない」


長井は真顔で頷いていた。




小学生の私は何を考えなくても人と話すことができていた。

その頃は、怖いとはちっとも思わなかった。

クラスの中の誰とでも、できたら同じように仲良くなりたいものだと、ふわふわ思い描いていた。


住んでいる場所で定められた学区のとおりに小学校に行き、卒業し、中学生になった。

三つの小学校に通っていた人たちが一気に学校にいたので、同学年の生徒の数もほぼ三倍になった。


男子の中には身体の大きくなる人や、大人のような声色を手に入れる子もいた。

先生に隠れて化粧を施す女子もいた。


皆が子どもっぽさを早々に捨て去りたいと思っているようだった。

私の方から仲良くなろうとしても、突き返されるような感触があった。


咲き誇っていた桜も落ちついた頃に、小学生時代の友達が私の知らない人と話しているのを見た。

私が見つめていると、友達が振り返り、目が合った。

私が何か言おうとする前に、その子は素早く目を逸らして、友達との会話を続けた。私はその輪に入ることが出来なかった。

何がいけなかったのか思い返す暇もないうちに、友達はもう私の方を見てくれなくなっていた。


私のように、ずっと同じままでいたいと思う人は少数派らしかった。


クラスの中の、とりわけ元気のいい人たちが、先生の指図に怒鳴り返したり、教室から勝手に出て行くのを見た。

狼狽えている先生を見て、初めて人間なんだとわかった。

人間だから、怒られたら怖いし、睨まれた怯んでしまう。

とりわけ気弱な先生だったみたいで、夏休みが明けたときには、がっしりとした男の先生が主担任となった。

反抗的な生徒と真っ向から立ち向かえる強い人で、クラスの雰囲気は体面的には落ちついていたけれど、反抗的な空気が完全に消えてしまうことはなかった。


先生のいないところでは、常に誰かが罵倒を口にしていた。

募り募った罵倒は憂さ晴らしへと向い、大人に従順になることを是としていた人たちが次々と餌食になっていた。


肉食動物が草食動物を食べるのと大差ない。

自然界では足が速ければ逃げられるけれど、教室からは出ることは許されていない。


ストレスのたまった肉食動物は、ひと思いに咬み殺そうとはせず、草食動物を蹴飛ばして遊ぶ。

牙を見せて、爪でゆっくりと皮を剥ぐ。

死なない程度にゆっくりと、薄皮が張るまで待って、また上から少しずつ剥いでいく。


クラスに居座るのがつらくなって、私は何度も図書室へと逃げ込んでいた。

高校の図書室と違い、中学校の図書室には私と同じような、居場所のない人たちが大勢集まっていた。

肉食動物たちは、かび臭い書物を嫌っていたし、司書さんは年老いたおばあちゃんで、怒りや苛立ちを削ぐ不思議な魔力を持ち、草食動物の楽園を温和に築き上げていた。


長井と出会ったのはその図書室だ。

同じクラスにいて、教室にいる間には決して話しかけてこなかったのに、私が図書室に入るとよく声を掛けてきた。


「お前、国語の成績良かったよな」


学校のテストの順位は非公表だったけれど、物好きな人たちは情報交換しあっていた。

長井もその情報交換会に参加して、私が好成績であることを突き止めたらしい。

得意というには、歯痒かった。

たまたま、読んだことのある小説が題材で、みなが頭を抱えていた作者の来歴も憶えていた。

フライングがあったから、目立つ成績になっていただけのことだった。


「俺は小説を書いているんだ」


声を潜めて長井が言った。

西日の差し込む放課後の図書室のテーブルの上に、少しだけくすんだコピー用紙が置かれた。

そのときから、8枚を1枚にした、節約志向の紙束だった。


文章校正の依頼。

私が小説を読んでいることも、書いていることも、彼は既に知っていた。


「なんで知ってるの。気持ち悪い」


思わず口に出してしまったら、思いのほか結構ショックを受けたみたいだった。


「ごめん」


俯いて引っ込めようとしたので、咄嗟に紙の端を押さえた。


「いいよ。読むのは好きだから」


誤字脱字や用語の違いなどを見つけ、赤字を書き足していく。


初めてやってみたそれは、読んで楽しむのとは全然違うものだった。


読み通して違和感があるところの全てを指摘することがどれほど大変なことなのか。

途中で目が痛くなり、結局は紙を持ち帰って、家に帰ってからパソコンの文書ファイルで指摘事項を羅列し、印刷して渡してあげた。

長井は面食らいながら、私のことを職人と呼んだ。

恥ずかしかったので一回で止めさせた。


当時の長井の小説は、呪いの言葉であふれていた。

草食動物と肉食動物に分ける比喩表現は、実のところ彼が好んで使ったものだった。

彼は学校の中で巻き起こるあらゆることを、手を変え品を変え書き表し、地の文でこき下ろしていた。

率直すぎるそれらの文言は、読み続けていると胃もたれのような不快感が残ったけれど、不思議と頭から離れなかった。

共感、露悪、グロテスク。私が小説に求めていた楽しさとはまた別の快感があった。


ひとつめの校正が終わると、二つ目、三つ目と長井はせがんできた。

勉強はそっちのけで、私は自主的に言葉の意味を勉強した。

おかげで国語の成績だけは本当に上がっていった。

俺のおかげだな、などと嘯く長井の足は踏みつけて遊んだ。


示し合わせたわけでもないのに、私は長井は同じ高校を選んでいた。

学業成績と、自転車で通える範囲。

考えたのはそれだけだった。


入学する間際に判明し、これからもよろしくと、校正依頼の文書を携えて長井が言った。

高校一年生のときは、新たな図書室の主でになった長井の小説を、相も変わらず校正し続けていた。


鋭敏になる長井の小説は、クラスメイトどころか、学校や教育制度そのものに切り込み、社会体制にまで非難の手を伸ばしていった。

長井の小説はどんどん分厚くなり、内容も苛烈になっていった。


私の図書室通いは杠さんに出会って途切れた。

その一方で、私が寄りつかなかった後も、長井は図書室で小説を書き続けていた。


その完成形が私の目の前に呈示された。

結局図書室の中では概要を掴むにとどめ、家に帰ってからじっくりと眺めた。

丸々一週間はその小説と向き合った。


話は複雑で、展開は陰鬱。

どこで得たのか知識は豊富で、文字数はどんどん増えていく。

久しぶりといいつつも、赤いペンは止まらなかった。

人の書いた文章は、気にしようと思えばいくらでも気にすることができる。

元気のいいクラスメイトたちを、相変わらず肉食動物と表現しているのに、咄嗟に赤い線を引いた。

何て言えばいいのかわからず、散々悩んだ末に、「過剰」と書き添えた。




「さすが守護神」


校正を終えた原稿を見つめ、長井が満足げに溜息をついた。

赤字のないページはなかった。

ひとつの赤字の後は、三行と開けずに次の赤字が入った。

指摘したファイルも束になって、印刷して持ってきておいた。


「相変わらず冗長すぎる。読む人のこと考えてないでしょ」


文書を覗いている長井に言って、私はテーブルに突っ伏した。

頭の中ではまだ長井の文章が頭の中でぐるぐる渦巻いていた。

この世の呪詛で溢れた文章。足下の浮つく感覚。堕落への真っ直ぐな視線。

長井はそれが楽しいのだろう。楽しいから書きすぎる。私と同じだ。


「ていうか守護神って?」


耳に残っていた長井の言葉を口にする。

また変なあだ名をつけられたら敵わない。


「知らないのか」


長井は目を瞬かせていた。


「なにを」


「これ」


長井はテーブルの上に置いてあったスマートフォンを操作した。

学校の中での使用は禁じられていたけれど、司書さんは職員会議で留守だった。


長井はとあるサイトを見せてくれた。

私も聞いたことのある、大手の出版社が関わる小説の投稿サイトだ。

そのサイト内では、数ヶ月に一度コンテストが開催される。

アマチュアで創作活動している人の参加をあまねく受け付けていて、大賞には書籍化が約束されている、というものだった。


画面に映っている、直近の大賞者の小説は、著者名が杠の一文字だった。


「読んでみりゃわかるよ。あの杠さんだって」


長井の言い方には、どこかうんざりしているような暗さがあった。

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