第3話
夏休みに入る前の、文化祭の打ち合わせだった。
教室を喫茶店に改造すると決まったものの、運営方針がいまだに定まらず、意見を出し合うのも飽きてきて、だらけた空気が教室に広がっていた。
クラスを取り仕切っていたのは学級委員だったけれど、途中で転入してきた杠さんが前に出て、場をほとんど取り仕切り、否定意見ばかりを述べる男子に向かって、鋭い言葉でまくしたてていた。
杠さんはいつでも笑っている印象があるけれど、怒っているところも様になる。
相手が男子でも先生でも、何でもはっきり言うところが、好まれもし、疎まれもしていた。
激しい音が鳴り、椅子が転がった。
よほど気に障ったらしく、男子のひとりが蹴り飛ばしたのだ。
クラスの中が水を打ったように静まりかえった。
高校生になってからは、間近で暴力的な場面に遭遇する機会もほとんどない。
全員が、杠さんでさえも、息をのんで固まっていた。
男子は低い声で喚いて、教室の後ろの半開きだったドアへ向かって歩き、突然そのドアが閉められて、立ち止まった。
もちろん自動ドアじゃない。
たまたま座席がそのドアの傍だった私が、精一杯の力を込めてドアを閉めたのだった。
正直なところ、私自身も自分が何をしているのかわからなかった。
逃げようとする男子が近づくにつれて頭が熱くなっていった。
杠さんの縋るような視線を感じた。
身体が言うことを聞かなくなり、床を踏み抜くような勢いで椅子から離れ、ドアを閉めた。音はクラスに響き渡った。
一瞬の空白ののち、男子が私を痛罵していた。
何を言っているのか聴き取れないくらい大きな声で、私を貶していることだけははっきり伝わってきた。
何も言い返せなかった。
喉の奥が詰まってしまい、言葉は形にならなかった。
目元までせり上がってきた熱が涙になって溢れそうになったところに、折良く教室の前側の扉が開かれ、担任の先生が入ってきた。
転がった椅子と男子へ視線を飛ばした先生は強い声で彼を叱責した。
どうも隣のクラスの人たちが物音を聞いて先生を呼んだらしかった。
名前を怒鳴られた男子は、あからさまな舌打ちを残して、自分の席へと戻っていった。
固まっていた杠さんも、先生の指示で自分の席へと戻り、その途中で私を見た。
怖がっていたときの青白さはもうなくなっていて、爛々とした瞳が私を見つめていた。
「何してるんだ平森」
先生に声を掛けられて、私は金縛りが解けたみたいに、急いで自分の席へと戻った。
顔も上げられなかった。
黒板の前で展開される議論の一切が耳に入らず、痛むお腹ときりきりする鼓動を意識し続けて吐きそうだった。
速く時間が過ぎることを願ってやまなかった。
それはクラスの、ほんの一瞬の出来事で、後日取り立てて話題になるようなことはなかった。
文化祭は夏休み明けにすぐ行われ、二学期が本格的に始まると、懐かしい思い出に変わりつつあった。
このちょっとした事件が、杠さんの小説の中で取り上げられていなかったら、私でさえ忘れていたに違いない。
「勝手に使っちゃってごめんね」
私が問い掛けると、杠さんはすぐに認めて、謝ってきた。
学校から一緒に帰る道すがら。辺りには黄色い光が降り注いでいる。
杠さんと会う以前から、見慣れた地元の景色だ。
川沿いの道を歩いていき、国道とのT字路を越えると一気にお店が増えてくる。
国道側へ曲がれば街中に入り、杠さんが利用している駅へとたどりつく。
守護神とは、小説の中の主人公が、私にかけられたあだ名だった。
面と向かってではなく、心の中でだけ。
「私はあんなにかっこよくないよ」
小説の中の私は、堂々と腕を両手を突っ張り、男子を止めていた。
ファンタジックなことは起こらない、
現代的な物語の中で、動的なシーンとして目立つ場面だった。
私に守られたと感じた主人公は、その後も私のアドバイスを受けて、自分らしさを確立していく。
そういうお話が読まれて、評価されて、コンテストの大賞を受賞し、書籍化の権利を手に入れた。
「でもね、小説を書こうと思ったのは、チサトちゃんと会ってからだよ」
だからありがとうと、杠さんは言った。
「前から書いてみたいなとは思っていたんだけど、なかなか書きたいものが見つからなかったの。でもチサトちゃんが頑張っているのを見たら、私でもいける気がしたんだ」
だから書いて、うまくいった。
プロの目により評価された。
なんだか遠い国のお話のようだ。
そういうことが身近に起こるものなのだろうか。
才能というのを嫌でも感じさせられる。
「よかったね」
私が口にする言葉も、どこか空々しい。
そのような言い方になってしまうのが情けなかった。何も言わない方がよかったのかもしれない。
「いいことばかりじゃないよ。変なコメントだっていっぱいつくし、上から目線というか、恨みがましさが透けて見えるというか」
小説投稿サイトでは、素人が誰でも自分の小説を作品を発表できる。
十数年連載している人もいれば、十数作品を放置している人もいる。
その誰をも受け容れてくれる。
読者は、好きな小説にコメントをつけることができる。
その機能を利用して、中には小説のダメなところをあげつらう変わり者もいる。
関わらない方が賢明だ。誰にも好かれる小説というのはあり得ない。気にしすぎると疲れるものだ。
「それでも、すごいよ。本当に」
念の押しのように言ったけれど、空々しさは抜けなかった。
川の光が夕陽を受けて強く輝く。
たまらなくなってアスファルトを見つめ、T字路を曲がった。
夜が近づいた。お店の明かりが視界にちらちら残像を残す。
寒々とした風が街の喧騒を運んでくる。電車の音が聞こえてきた。
あの音が次に来る頃には、杠さんはもうホームに立っているはずだ。
杠さんはずっと前を向いて歩いていた。
話はもう終わっていたから、私と話をすることももうなくなっていた。
一緒に帰ることを提案したときには、聞きたいことがやまほどあった気がしたのに、言葉がどうしても浮かばなかった。
別れの挨拶をし、電車に乗っている杠さんを思い浮かべながら、走り去る車両を眺めていた。
小さく手を振っても、当然誰も見つけられなかった。
かじかむ掌に吐息をかけて、できる限り真っ直ぐ帰った。
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