第7話

勉強の日々が続いていた。


とはいえそれは名目上の話だ。

小説が棚に並んでいるのを感じると、指は次第に動きを鈍らせるようになった。


参考書を座席取り代わりに、私はふらふらと書棚の間をさまよった。

勉強の合間、十五分休憩とか、その程度の合間でも本を読むことができた。

十五分の休憩は、次第に二十分になって、三十分になった。


今日、二日間にわたる期末テストの一日目が終わった。

明日が最終日。もう勉強する気は起きなかった。

溺れながら水泳を学ぶようなものだ。

結果を気にするだけ無駄なので、私は年末年始に書けて読む本を物色し始めていた。


「ねえ」


囁き声を掛けられた。

聞き覚えのある澄んだ声に、息が詰まりそうになった。


「ちょっと今、大丈夫?」


杠さんが通路の先に立っていた。

私を見て、いつもの微笑みを浮かべていた。

二人で一緒に図書館を出た。


杠さんは真新しい本をすでに鞄にいくつも入れていた。

住んでいる街は違うけれど、区域内の学生だから、本を借りることはできたらしい。


冬の陽は山際に沈み、辺りは薄闇の中だった。

街灯が灯り始め、車のヘッドライトが若干目に痛かった。


駅までは距離がある。

杠さんは私に会いに来たと言った。

本を借りるのはあくまでもついでだったらしい。


「立ち話も寒いから、どこかいこうよ」


と、杠さんは提案したけれど、私が申し訳なくなるくらい、周りには何もなかった。

駅前ならば、チェーンの喫茶店があった。

私たちはバスに乗って駅前に向かった。


二人がけの席に私達は二人で並んだ。

私が窓側杠さんが廊下側だ。


「ごめんね、先に連絡しなくて」

杠さんが言う。

私が答えないでいると、ガラス越しに杠さんの俯くのが見えた。

表情はわからなかった。綺麗な横顔、と思う。別に変な意味じゃない。


純粋に、整って見える。

傍から見ていても華やかで、近寄りがたい。

杠さんの方から話しかけてきていなければ、私は絶対に近寄らなかっただろう。

本来なら、住む世界の違う人だ。


「小説を書き始めたの、本当はチサトちゃんに会うよりもちょっと前なんだ」


杠さんの方から話し始めた。すでにバスは走り出していた。

街灯が青白く、私達の顔を明滅させていた。


「転校ばっかりしていたから、普通の人の生活を想像していたんだ。同じ学校に通い続けて、同じ友達と一緒に関係を築いていけたらどんなに楽しいんだろうって、想像して、形にしてた。実践もしたし。でも、内面は変わっていないから、本当はあまりうまくいっていないかもね」


杠さんの話し声ばかりが続くのは珍しかった。

杠さんと一緒のときは、私はいつも合いの手を入れていた。

私のぎこちない返しを杠さんはいつも柔軟に、嫌な顔ひとつせず笑顔で受け答えしていた。


「チサトちゃんの書いている小説を見たときは、本当は嬉しかったんだ。突然話しかけちゃってごめんね、あのとき、邪魔だったでしょ?」


顔が近づいてきた。杠さんの顔を流し目で見て、首を横に振った。

言葉は相変わらず出てこなかった。

正直に言えば、出せなかった。喉の奥がからからに乾いていた。


バスが止まり、また動き出す。

駅まではまだ時間がある。

まだ、降りることはできない。


「チサトちゃんって、千の里って書くんだよね」


私が頷くのを待ってから、杠さんは続けた。


「千里って、調べてみると3.9キロなんだって。だから、千里は3900kmになるよね」


つい、杠さんを振り向いてしまった。


「チサトちゃん、もしもここからあだ名を作るとしたら、どうする?」


顔を見つめるのさえ怖かったのに、金縛りにあったかのように、私は杠さんからもう目を背けられなかった。


杠さんは笑っていなかった。


いつもと変わらない声音だった。

言葉の端々で笑っている気がしていた。

いつものように微笑んでいるとばかり思っていた。


私は杠さんのことを何もしらない。

射竦められるような視線が私に向けられていた。


「これ」


スマートフォンを操って、メモ帳欄を見せてくれた。

文字が並んでいる。杠さんはいくつも検索していたらしい。

咲稀という名前から、相手の可能性を。


「さく、まれ」


杠さんは噛んで含めるように言った。


「ページを覗いたら、あの小説があったよ」


それもそうかと、私は思わず笑ってしまった。

どうして残してしまったのだろう。

私が書いた小説を杠さんは知っているのに、それが出会うきっかけだったのに、今の今まで失念していた。


「ごめん」


私の声は掠れていた。


「別に、謝らなくて良いよ」


杠さんはあくまでも柔らかい声に撤していた。


「だってチサトちゃん、悪いことしたと思っていないでしょ」


何もかも見抜かれている。

杠さんと話していると、時折そんな錯覚に陥ることがあった。


あの笑顔の下に何が隠れているのか、気になったけれど、深入りすると引きずり込まれる気がして、いつも触れられないでいた。


それが今、目の前に、自ら顔を出していた。


「大丈夫、私はわかっているから」


杠さんはようやく笑った。今までと印象が違う。

冷たい視線のまま、口だけが弧を描いていた。


私と杠さんの間に見えない壁が出来ていた。

一瞬でそれを築くことは容易いことなのだと、私に知らしめるような笑い方だった。


喫茶店を目指してバスに乗ったのに、バス停に到着した私はすっかり気力を失っていた。

駅のコンコースの中にベンチがあった。

風は寒かったけれど、マフラーを深く被れば凌ぐことができた。


何より、今の杠さんと相向かいになりたくなかった。

同じ空間にいると、重圧で潰されそうな気がした。


杠さんは雑踏を眺めていた。エサを探す鷹のような目をしていた。

本を書くときは、いつもこんな顔をしているのだろうか。

あるいは教室の中にいるときから、誰も見ていないところで。


「駅ってみんなが忙しそうだよね」


と杠さんが言った。


人々は立ち止まらずにどんどん流れていく。

地方都市といっても、人はたくさん住んでいる。

図書館の周囲はかつては商店街だった。


今では閑散としている。

それに引き換え、駅前は夜も明かりが絶えない。

その差は一目瞭然だ。駅は外の世界への出入り口だ。


希望は街の外にある。

だから多くの人が簡単に、窮屈そうに移動していく。


「私の両親も、いつも忙しそうにしている」


杠さんが冷めた声で言った。


「私、一番知りたかったのは、あの人たちが何を考えているかだった。わからなかったから、作品に書いて、動かして、実験していた」


杠さんの小説には親子が出てくる。

冷めたところのある家族だった。

話が進むと、最後には主人公を大事な存在だと認める。

本心では優しい親なのだと、最後にわかる構成だった。


「あの私の小説は、なんか日和っちゃって、自分としてはうまくいかなかったんだよね。親が良い人になりすぎちゃった。それなのに、優しいから良いってコメントがたくさんついた。コンテストの主催者まで言っていた。わからないものだよ、本当に」


杠さんの声は少しだけ優しく聞こえた。


「チサトちゃんは、なんで小説書いているの?」


柔らかい声なのに、突き刺されるような印象を受けた。


「書くことが楽しいから」


なるべく間隔を開けずに答えたつもりだった。


「じゃあどうしてあのレビューを書いたの?」


杠さんの瞳が私を向いている。いくら言い繕っても見透かされる気がした。


それは敵意でも悪意でもない。

真っ正面から私を捉えるような視線だった。


私の鼓動があまりにも速すぎて、喉の奥が燃えているみたいだった。

怖いというのとは少し違う。

私は昂揚していた。私のことを真っ直ぐ見つめてくれる人は、今の杠さんが初めてだった。


「書くことだけは、譲りたくなかったからだよ」


私は杠さんを睨んでいた。


杠さんは鼻で笑うと、鞄に手を突っ込んで、紙の束を取り出した。


紙には文字がびっしりと並んでいる。縦書きの文章が目に入ってきて、私は悲鳴を上げた。


「私の!?」


雑踏の視線も気にならず、ひったくるように杠さんの手から奪い取った。


「どうして、これ、なに?」


「私も同じだからだよ」


杠さんは真顔だった。


「私だって、あのコメントに何も思わないほど、人間できてない」


紙の束は、長井とは違い、両面で1ページずつだ。

そして文章には、ほぼすべての行に赤字が伏されていた。

その手間は察するに余りある。


それは未完成だった私の小説を、杠さんが校正したものだった。


「咲稀さんのあの校正、間違っているとは思っていないからね。ていうか、すごく参考になった。ありがとう」


突然のお礼に、しどろもどろになっているうちに、杠さんは鞄をかけ直して立ち去ろうとした。電車の到着を予告するアナウンスが鳴り響いていた。


「待って」


「いや、時間だし」


杠さんが笑いながら流し目で私を見て、「じゃあ十秒」と時間をくれた。


「私が書くのは、私を忘れたいからだった。でも、杠さんのおかげで違うってわかった」


列車の音がする。

駆け込む人が見えた。

そろそろ走らないと間に合わないのだろう。


杠さんは、まだまっすぐ私を見てくれている。


「私はこれからも書くよ。杠さんに見てもらいたい。だから、待ってて」


「待たないよ」


間髪入れずに杠さんが差し込んだ。


「じゃあ、追い抜く」


思いついた言葉がそのまま口をついて出てきた。

言っているそばから口元が綻んだ。


「本気だよ」


返事はなかった。杠さんは走り出していた。


列車の到着を告げるアナウンス。

駆け込む人の数がどんどん増えていく。

杠さんの腕を振る姿が、どんどん遠ざかっていく。

見えているはずはないけれど、私も大きく手を振り返した。


「本気だから」


 同じ言葉をもう一度、自分に向けてのように繰り返した。

誰に何を言われても、もう虚しいとは思わないと誓った。

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