チサトのはじまり
泉宮糾一
第1話
綺麗な名前だと思った。
だから、小説の主人公にした。
言葉を覚えて、ペンで書きつける技術を身につけたときから、文章をつづることが好きだった。
自分の見ているものや、周りの人々の動き、心の中で感じていること、それらのものごとをひたすら書き続けることが楽しかった。
学校で広げるノートの端にはいつも授業と関係ない文章が並んでいて、誰かに覗かれそうになるとすぐに消した。
自分の中から浮かんだそれは、誰かに見せるつもりもなかった。
それが私の日課だった。
高校生活も半ばを過ぎたその日も、私は黙々と心穏やかにペンを走らせていた。
「それって私?」
わんわんと教室中に響いていたクラスメイトのノイズの中から、その声が浮き上がって聞こえてきた。
「私だよね」
反応できずにいたら、もう一度同じ問い掛けを繰り返された。机の傍に指先を添えて立つその人を見上げると、杠さんが小首を傾げて微笑んでいた。
見られた。悟った瞬間、反射的にノートを勢いよく閉じた。
風が舞い、覆い被さるようになっていた杠さんの毛先も揺れた。
「待って」
持ち上げた鞄のファスナーを開いたところで、杠さんが口を挟んだ。
「その杠さんは、刺されて死んで、それで終わり?」
私が書いていたのは、始まったばかりの冒険小説だった。
まず、世界中の時間が止まる。教室にいた杠さんだけがその異変を知覚できた。
恐る恐る階段を降り、外に出て、異形の怪物と遭遇する。
鋭い爪が杠さんに向けられたところで、当の本人から声を掛けられたのだった。
「ええと、主人公だから」
「じゃあ助かるんだ」
良かった、と呟く杠さんが、何を考えているのかわからなかった。
弧を描く綺麗な口元や、ゆるやかに下がった目尻のどこかに、悪意の兆しがないだろうか探したけれど、途中で杠さんが腰を曲げて、これまでよりも顔を近づけてきたので、頭の中が真っ白になった。
「続きができたら読ませてよ」
教室の前側から、杠さんを呼ぶ声がした。
「今行くー」と杠さんは返事をした。
私にひらひら手を振って、跳ねるように離れていった。
机の天板に腰掛けている、声の大きなクラスメイトたちに、杠さんはためらいもなく合流した。
杠さんは転校生だった。
紹介されてまだ一週間しか経っていなかったというのに、彼女はクラスの一員として認められていた。
時折置物のように扱われていた私よりも、遥かに上手に馴染んでいた。
小説の登場人物、それも特にこだわりのないモブキャラクターたちには、クラスメイトの名前をつけている。
生きていようが酷い目に合わせようが、大して気にはならなかった。
絶対に読まれないと自信を持っていたからだ。
杠さんにしても、彼女は私とは交わらない線だと思っていた。
彼女の歩くこれからの人生に、私の入り込む余地はなく、だからこそ私も気兼ねなく、彼女を小説の中で活動させることができたていた。
小説の中の杠さんは、時間が止まった学校の校庭で、片腕を失う。
激痛に苛まれて悶えているところを、通りすがりの賞金稼ぎに助けられる。
闇医者でもある彼は、違法な手術を勝手に施された彼女は戦いの手段として使役される。
二度と日の目を浴びることのない身分に墜ち、賞金稼ぎの男を恨みながら、異形の怪物によって様変わりした世界を旅する。
これが当初の構想だった。悲壮感に満ちた旅路のはずだった。
実際に書き起こされた冒頭部では、杠さんが五体満足で、賞金稼ぎは好男子へと変わっていた。
皆殺しのはずだったクラスメイトや先生や家族も生き残り、時間が止まってしまった彼らを動かすために旅をすることになった。
目的も変われば行程も変わる。
つまるところ手に負えなくなって、小説は男と旅に出るところで頓挫した。
「ごめん、これ以上は無理」
丸々一ヶ月悩んだ末に、杠さんに謝罪した。
「なんで謝るの」
杠さんは笑ってくれた。
他のクラスメイトたちと一緒にいるときと、何ら変わらない笑顔だった。
ノートの上でぐちゃぐちゃになったプロットの成れの果てを見せると、杠さんは目を輝かせた。
彼女の細い指が、箇条書きにされたメモの上を転々と移り、矢印で結びつけられたシーンの欠片を突いた。
「私をもっと追い詰めても良かったんじゃないかな」
矢印の中にある、大きな×マーク。主人公が多くのものを失うその道筋は、私が杠さんの閲覧を恐れ、消してしまったものだった。
「だよね」
小さな同意だっただけど、きっと杠さんのことだから、ちゃんと聞こえていたんだろうと思う。
「そういえば、チサトちゃんは登場しないの?」
プロットを眺めていた杠さんが突然尋ねてきた。
ノートの端の登場人物一覧を指で指している。
書き足しや書き直しが頻発しているそのページに、私の名前は載っていない。
私自身、言われて初めて気がついた。
「忘れてたみたい」
何気なく答えたけれど、それこそが重要なのではないかと、帰宅してから思った。
小説を書いているとき、私は自分のことを忘れていられた。
自分以外の人たちを活躍させると、心がとても落ちついた。
私が楽しみたい物語に、私自身は要らないのだ。
私の書いていたものは、誰に見せるつもりもなかった。
読者がひとり、杠さんのおかげでようやく日の目を見ることができたものだ。
そう考えると、むずがゆい思いが込み上げてきた。
その後も、短い小説をいくつか書いた。
世界が海に沈んだり、月が墜ちてきたり、私が書く小説はいつも、どこか設定を凝らしていた。
杠さんはその工夫をいつも明るく褒めてくれた。
私が夢中になるには十分すぎる明るさだった。
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