第5話
『登場人物たちが都合良く動きすぎだと思います』
そんなコメントが、杠さんの小説についていた。
咲稀。それが書いた人の名前だった。
誤字脱字や、間違った語法に加え、最後の最後には、タイトルどおりのことが書かれている。
登場人物が必ず主人公を助けているとか、主人公の葛藤が少ないとか、その手のことだった。
コメントには、他者が別のコメントを添えることもできる。
レビューのようなコメントには、同意や反論の評価が送られてきたりする。
小説の外側で、その小説のことを良くも悪くも気になった人たちが、そんな戦いを日夜繰り広げている。
『都合良く動くことの何がいけないんですか』
寄せられたそのコメントに対して、咲稀さんからの返事はない。
もっとも、コメントの数が多すぎて、単純に対処し切れていないのだろう。
大賞に選ばれた作品も投稿作品ということで、コメントはいくらでも、誰にでもできた。
コメントを見る限り、杠さんの小説は、たぶん私と同世代の人たちに支持されている。
舞台がまず高校ということもあるし、学校内で巻き起こる事件や、主人公の心境、行動にも、親近感が湧く。
それでいて、使い古しのようには感じなかった。
コメントの数が100に上ることが判明すると、ページを遡るのも面倒になった。
投稿サイトを閉じると、青一色のディスプレイに顔が映る。
表情の不鮮明な黒ずんだ顔は、自分だというのに、不吉なもののように感じられた。
「愛されてるなあ」
呟くと、頬がひくひくと震えた。
私の部屋には目立つのは背の高い本棚がある。
天井まで続く柱とともに壁際に立っており、文庫本サイズの書籍が10段は載せられる。
お小遣いとお年玉を掛け合わせて買った代物で、もしも倒れてきたら自己責任だからね、と親にはキツく言われたけれど、構わなかった。
収まる場所がないまま本が床に散乱するよりはマシだった。
ずっと本が好きだった。
本の世界にいれば、私のことを忘れられた。
私じゃない人たちの活躍は、素直に頑張れと言うことができた。
私も小説を書いている。始めたのは、小学生のときからだ。
文字を書き続ければ小説になる。
そのように信じて、幼い私は熱心に書き続けていた。
小説家になりたいとも、当時は本気で口にしていた。
七夕の飾りにも書いていたし、初詣でも、神様にお祈りをしていた。
面白いものが書けて、小説家になれますように。
何度も繰り返し願った。
それが自分のやりたいことだと信じて疑わなかった。
「まさか本気じゃないんでしょ?」
中学生のとき、母に言われた。
子どもはやがて大人になる。
身体が大きくなり、精神的にも成長する。
中学生とはその過渡期だ。
社会に出て自立するための準備期間だと、母は時折口を酸っぱくして言っていた。
ずっと本ばかり読んでいる私を疎み始めていることは、はっきり口に出されなくても、その目に訴えられた。
母は、進路希望調査という、今後の先生の指導方針を決める大事な書類に、小説家などと書こうとしている私の後ろ髪をつかみ、半笑いな顔で首を傾げて尋ねてきたのだった。
本気じゃないよと、言わないといけない気がした。
でも真っ向から否定はできなかった。それはだけは譲れなかった。
私は結局、黙々と、とりあえずまだ考え中だという説明つきで、真っ白な調査用紙を担任の先生に提出した。
先生は特に何も言わず受理してくれた。
後から回りに聞いてみると、将来のことを考えている人なんてほんの一握りで、ほとんど全員がとりあえず進学と選んでいた。
進学することがいいことだと望まれているから。まだ働きたくないから。
理由としてはそんなところだ。
真剣に悩んでいた私みたいな人は、少数派だったらしかった。
悩んでいたことも口に出しづらくなった私は、自分の考えを押し隠すことにした。
私は小説を隠れて書くようになった。
長井の校正に付き添う傍ら、自分の小説を形にしたこともあったけれど、うまくまとまらず、どうにもならなかった。
書き上げなくてはならないと思いつつ、途中で自ら放棄ることばかりを繰り返した。
専業作家というのはとても厳しい世界だと、調べてみてよくわかった。
面白い話が書けないと、生きていくことはできない。
だから、心配ない生活をしていると思われるには、相当の努力を重ねなければならない。
中途半端なものをいくら束ねても、成功しなければ、母に認められることはない。
自分の作品を示し、胸を張って私の小説だと言えるようになりたかった。
幾度も書いて、混乱して、諦めて、私の指は、何度も立ち止まった。
杠さんを主人公としたあの小説も、設定を思いついて、勢いで書き始めて、途中で投げ捨てるつもりでいた。
それなのに、杠さんに読まれることになると、久しぶりにちゃんと書き上げようとおもった。
杠さんに読ませるという目的でなら、これまでと違う手触りが感じられると思っていた。
そうして、相変わらずの泥濘にはまり込んだ私をよそに、杠さんは先を越して行った。
引き留める間もなかった。
悶々としていた私の日々をまるごと後塵に廃して、杠さんはほぼ始めての小説で大勢の評価を集めた。
書くことを悩む必要さえもない人が、実在するんだと思い知らされた。
真っ暗な部屋の中で、溜息が洩れた。
エアコンから吐き出される暖房は、足下までは届かなくて、冷たい床を足の裏で感じた。
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