第3話 そして握っていた小銃を捨てた

「百万フラン。使い道は、考えてあるのかな」


 シャルルには、何も言えなかった。


「まさか、そんな大金をどう使ったらいいのか分からない、などと言うわけではないよね。よもや、本当は、金額などいくらでも良かっただなんて」

「――やめろ」

「ここからは僕の憶測だけれど――シャルル」


 なぜか、フィリップの方が泣きそうだった。


「まさか、ここに兵士が踏み込んできて自分が捕まるのを待っているわけではないよね?」

「やめろって言ってんだろ!?」

「シャルル」

「もう黙れよ! もうテメエの戯れ言なんかに付き合ってられねェよ!」


 シャルルはその場に座り込んだ。

 自分自身でも意識していなかった心の内を暴き出すとは、こいつは天使か何かなのかと、本気でそう思った。本当に持てる者とは、人智を超えたことまで為すのか。


 硝子を踏む音が聞こえてきた。

 顔を上げると、フィリップが立ち上がって、おもむろにこちらへ歩み寄ってきていた。


「何だよ。来るなよ」


 声が震えていた。そんな自分を情けないと思う余裕すらシャルルにはもうなかった。

 シャルルには何もない。着るものも食べるものも住むところも、親も友も恋人も、夢も希望もない。他人への嫉妬に狂うだけの、空っぽの人生だ。本当は、他人と比べられるものなど、何一つ持ち合わせていないのだ。


 けれど、フィリップは、笑わなかった。

 さんざんフィリップを箱入り息子の世間知らずと嗤ってきたシャルルを、フィリップは、嗤わなかった。

 さんざん、嗤われて生きてきたシャルルを、フィリップは、けして嗤わなかった。


「もしも君が王政に不満を持っているのなら、僕を撃つといい」


 フィリップが、床に膝をつきつつ、言う。


「自分の人生が、今の王政のせいで貧しくなったのだと、思っているのなら。僕を、今、ここで殺せばいい。撃つなり刺すなり、君ならばできるはずだ」


 声はなおも穏やかだ。


「僕の死体を見れば、僕の父はやる気をなくすだろう。祖父も逝き、父も引き、僕もいないこの国を、今の陛下おひとりですべて回し切ることは叶わない。とてもお優しいお方なんだけれどね、僕の一族が過保護で、少しお世話を焼き過ぎてしまったのだと思う。残念ながら、国王陛下は僕らなしですべてのことを為せるお方ではない」


 本当に、穏やかで、優しかった。


「陛下の御子は王女殿下しかいない。王女殿下はまだ御年十五、今回の婚約だってご本人は何をどこまでご理解なさっているのか分からないんだよ。そんな状態で、殿下が女王として即位なされた場合。この国は、乱れるだろう。そうすれば――」


 優しかった。


「誰も彼も、この先この国で生まれる子供たちは、君のように育つと思うよ。名前もない、食事もない、お金の使い方も知らない、そんな子供たちで国が溢れ返るよ。――君がそれを望めば」


 フィリップが「今が唯一の好機だよ」と囁いた。そうして、うつむいたままのシャルルの顔を覗き込んできた。明るい笑顔だった。


「……ごめん。意地悪なことを言ったね」

「え……?」

「そんなこと、するはずがないのにね」


 次の時、シャルルは、十数年ぶりに自分の頬を涙が伝っていくのを感じた。


「そんな人生はつらいことだらけだと分かっているシャルルが、そういう未来が来ると知ってもなお、そういうことを、するわけが、ない」


 フィリップの穏やかな声音が、力強く聞こえる。


「――そう、僕は信じているよ」


 床に両手をついた。硝子が手の平に当たって痛かった。だが、そんなことに構っている場合ではなかった。


「まあ、でも、構わないよ。僕がお人好しの世間知らずだからそんな風に考えているだけで――君がまだ僕を殺そうとしていないからそんな風に考えただけで、もし本当に百万フランが手に入ると分かったら、そのうち本気で殺しにかかるのかもしれない。その時はその時だ」


 そして、「ははは」と朗らかな声で笑った。


「もしもそうする方を選ぶのならば、一つだけ約束しておくれ」

「何を……?」

「顔だけはこれ以上傷をつけないでほしい。ぐちゃぐちゃの顔を見たら、姫はきっと泣いてしまうだろう。母も最近胸が悪いんだ、発作を起こしてしまったら、一緒に逝くことになるかもしれない。だから、死体はできる限り傷を少なくして、見る者に衝撃を与え過ぎないようにしておくれ」

「お前、バカじゃねェのか」

「弟妹や姫にはたまにそう言われる」


 フィリップが立ち上がった。何をするのかと思えば、能天気にもシャルルに背を向けた。窓の外を見ようとしているようだ。


「今、何時かな。空腹だけれど、仕方ない。そろそろ疲れてきたから寝ようか」


 このまま、彼の背を的に銃を撃てば、すべてが終わるだろう。彼との会話も、自分の人生も、この国の未来も、何もかもが終わるだろう。

 震える手で、銃を引き抜いた。引き金に指をかけ、彼の方に向けた。


 あと少しだった。

 あと少し、引き金に力を込めるだけだった。


 それなのに、できない。


 目の前が涙で歪んで、彼の背中に焦点を合わせることすら、シャルルには、できなかった。


「――うちに、来る?」


 いつの間にか、フィリップが振り向いていた。


「仕事を紹介できるよ。屋敷が広くて、部屋が余っているから、住み込みで働けると思う。服も、体格的にきっと僕の服が合うと思うから、当面はどうにかなるのではないかな。食べ物も、仕事をしてくれるのであれば、他の使用人たちには、朝昼晩に支給している。そんな、奴隷みたいな仕事はないと思うし――何があるだろう、庭の手入れか、馬の世話か――僕と一緒に宮殿へ上がってみるのもいいかもしれない。そうだそれがいい、僕はいつも父の荷物持ちで大変なんだよ、君が書類の半分でも持ってくれたらとても助かるよ」

「お前、ホントに、バカなんだろ」

「シャルルは何をしたい? シャルルが好きなことをうちで探したらいい」


 正直に「何も思いつかない」と答えた。すると、「ではともに探そう」と言われた。


「僕が君の最初の友達になろう。しばらくの間は一緒にいられると思うよ、お姫様はまだ十五で、正式な結婚は当分先だからね」


 シャルルは握っていた小銃をその場に捨てた。



<了>


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授けられし人生 日崎アユム/丹羽夏子 @shahexorshid

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