はじめに断っておきます。この作品にはとても「イヤな奴」が登場します。それも二人。主人公の養父とその娘です。彼らの振る舞いの理不尽さ、気味悪さ。それにじっと耐える孤児の主人公。そんな世界名作劇場チックな構図はしかし、終盤に至って鮮やかに反転します。以下、少しネタを割っているので、できれば本編読後にご覧ください。
素晴らしいのは、その反転がストーリー上の意外性の演出にとどまらず、少年のものの見方の変化をあらわしていることです。少年が自分の置かれた境遇を正しく理解するとき、彼は自らがなすべきこと、そして家族との向き合い方を知ります。注目すべきは、養父の視点でも主人公像の反転が起こっていること。そしてその対称性が、両者の和解を演出していることでしょう。
われわれは何かというとすぐ他人を「モンスター」呼ばわりし、自分とは違う人種だと思いたがります。「モンスター」をぎゃふんといわせて溜飲をさげるテレビ番組も放送されているくらいです。ネットでは毎日のように「炎上」騒ぎが起こり、特定の個人に対して徹底した攻撃が行われます。
そんな人間が持つ排他性、攻撃性に対して、この作品は違う道を示します。赦しです。ここに、キリスト教的な慈悲と寛容、憐憫の精神が顕れています。これは主人公が神父を目指す少年であればこそでしょう。
怒りも肉欲も当たり前に持つ等身大の少年でありながら、それでも、自分に害なす誰かを赦すということ。ともすれば、リアリティを欠いた綺麗ごとに堕しがちな展開ですが、本作ではキリスト教という指針を組み込むことでその難を逃れているように思います。過度の潔癖さとそれに起因するやせ我慢。これもまた思春期の少年らしい精神性に他ならないからです。これが完全に内発的なモラルとして描かれていたら、やはりどこか絵空事めいたものになっていたでしょう(そういえば作中で言及されるハードボイルドもまた「やせ我慢」の美学を持った文学形式であることは偶然でしょうか)。
かように、本作はキリスト教的な赦しの精神と、少年の成長を同時に描ききることに成功しています。「スカッと」はしないかもしれませんが、それでもどこか爽やかな余韻を残す本作。歪ながらも、キリスト教の精神を身近なものとして生きてきたわたしにとってとても印象的な作品となりました。