第2話 本物の豊かさ

「君、名前は?」


 彼が口を開く前に、御曹司の方が「僕はフィリップだ」と名乗った。


 御曹司――フィリップの方を見た。

 フィリップは、先ほどよりも少し穏やかな表情で、彼の方を見ていた。

 目が合ったら、微笑まれた。

 目を逸らして「気色悪ィ」と呟く。


「君の名前を教えておくれよ」

「ねェよ」

「ない?」

「名前なんかねェよ」


 フィリップが沈黙したので、少しだけ目をやる。フィリップが目を丸くしてこちらを見ている。


「何だよ。そんなに珍しいかよ、名前のない奴が」

「え、いや……だって、不便ではない? ご両親やご友人は、君を何て呼んでいた?」


 彼は声を上げて嗤った。


「おめでたい奴だな。世の中のすべての人間に親や友達がいるとでも思ってんのか?」


 フィリップはまた黙った。ややして、「そうだね」と呟いた。


「いない人間も、いるんだね。勉強になるよ」


 しかし、フィリップはめげない。


「それでも、まさか、ずっと何とも呼ばれずにきた、ということは、ないだろう? 今までどういう風に過ごしてきたのかな」


 彼はふと、考えた。言われてみるまで意識したことがなかった。


「ガキの頃は、チビとか小僧とかあの子とか、そんなのばっかりだったな。大きくなってからは、奴、とか、あの野郎、とか。まあ、何だってあるさ」

「そう……」

「仕事をする時は、適当にありそうな名前を使っていたこともある。ジャックとかポールとか、適当にな」


 からかってやろうと思い立ち、わざと「お前もオレを好きなように呼んだら」と言ってみた。するとフィリップは能天気な声で「分かった」と答えた。


「では、シャルルと呼ぼう。僕の祖父の名だ」

「へえ」

「父に家督を譲る前、宰相をしていた頃は、有能で敏腕な、偉大なひとだったと聞いた。僕が知っている祖父は爺馬鹿で、僕が欲しいとねだったら宮殿の庭の林檎を勝手にもいでしまうような手癖の悪い人だったけれどね」

「そりゃあちょうどいいな」


 彼――たった今シャルルとなった男は、犬歯を剥き出しにして笑った。


 月が傾く。影がさらに細まる。


「――ねえ、シャルル」


 フィリップの方を振り向きつつ、「今度は何だよ」と答えた。

 やはり、フィリップは微笑んでいた。けれどその笑顔は、今度はなぜか、悲しそうに見えた。

 最初は、自らの現状を憂えているのだろうかと思った。


「いつまでこうしている気なのかな」

「おうちが恋しくなったか?」

「そう――だね、そうかもしれない」


 フィリップが「こんなに長い間食事をしていないのは初めてだから」と言うので、シャルルはまたもや笑ってしまった。二、三日パンを食べられない日が続くことなどままあった。むしろ、一日一食でも食べられるものがある日が続けばその間は運が良いとさえ言えた。


「君は、お腹は空かない?」

「て言うか、こんな中でも腹が減るお前の呑気さが天晴れだ」

「お腹ぐらい空くでしょうよ。君だって、そうでしょう? 見た感じ同年代だと思うし」


 同い年だと言ってやったらどんな反応をするだろう。


「二、三日くらい何も食わなくたって死なねェよ」

「そういうものかな」

「毎日三食食えるテメエらには分からねェだろうが、空腹感ってのは、頂点を越えると消えていくんだ。で、気がついたら、体に力が入らなくなってくる」


 シャルルはその後、「ま、そうは言ってもオレも五日以上食わなかった日はないけどな」と言ってから、我に返った。フィリップを相手にして、何を得意げに語っているのだろう。


 おそるおそる、フィリップを見てみた。

 フィリップは、相変わらず、シャルルをまっすぐ見ていた。


 シャルルは黙った。フィリップも、しばらくの間黙った。


 しばらくの間だけのことだった。

 静かに、静かに、フィリップの声が聞こえてきた。


「――百万フラン。どこで、受け取るつもりなのかな」


 痛いところを突かれた。


「誰かと約束があるのかな。あるいは、誰かがここを知っているのかな」

「――うるせェな」

「いつ、どこで。……君は、言わなかったね」

「うるせェ。黙れ」

「君は、僕を、どうしたいんだろう」


 シャルルは黙った。顔を背けた。

 それでもなお、フィリップがその青い目で自分を見ているのが分かった。


「父は今頃百万くらい用意していると思うよ。でも、君はそれをいつどこで受け取るの」

「大した自信だな」

「もちろん。むしろ、百万程度でやり取りされるなんて悲しいよ。僕は僕にもっと値打ちがあると思っているからね」

「クソ野郎が」

「だって僕の父母や祖父母はありったけの愛情とお金を注いで僕を育ててくれたんだ、僕は百万では元が取れない息子なんだよ」


 だがそこに嫌味さはない。彼が純粋にそうと信じ切っているのだ。

 だからこそ、腹が立つ。


「僕はね」


 フィリップには最初から動揺する必要も混乱する必要もない。彼はそれを最初から分かっていたのだろう。だから逃げようともしない。

 悔しい。


「物心がついた時には、父母や祖父母や弟妹に愛情を込めてフィリップと呼ばれていて、毎日厨房で僕ら兄弟のために作られた食事を取っていて、貴族の友達もたくさんできたし、今となっては姫まで僕を慕ってくださっている」


 悔しい、悔しい。


「でも、僕は、それを、当たり前のものだと思って享受しないといけないと思っている。そして、そう、自覚的でないといけないと思っている。僕は、僕が恵まれて幸せな人生を送っているということを、理解していなければならない」


 悔しい、悔しい、悔しい。


 相手は、都の内にある邸宅で、裕福な両親に求められて生まれ、たくさんの使用人たちにかしずかれ、上流階級の友人を大勢得て、今は国王の一人娘の婚約者となった男だ。


 自分は、都から遠く離れた港町で、どこの国の者とも知れぬ船乗りと一夜を過ごした町娘の子に生まれ、母親となった町娘が子の面倒を見ようとしなかったので祖父母がとりあえずといった感じで育て、市場の果物を万引きしたかどで生まれた町を追われ、気づいたら、今である。


 人間は平等ではない。

 すべてをもっている人間は、本当に豊かなのだ。

 これが、本物の、豊かさだ。



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