時には曲がった言葉よりも、今を。
『……どうして、そんなことを?』
『今言った通りです。君は夏貴と別れたほうが、必ずより良い人に巡り会える。だから別れなさいと言ったんです』
『すいません……本当に言っている意味が、よく分からないのですが』
扉越しに聞こえる千冬さんの声。
表向きは冷静だが、微かな抑揚やトーンの変化から、怒っているのだと分かる。
無理もなかった。
いきなり恋人と別れろと言われて、納得できる人間はいない。
千冬さんは続けて尋ねていく。
『夏貴くんと付き合うのが、なぜいけないんでしょうか? 理由もなく言われても困ります。ちゃんと説明をお願いします』
毅然とした態度だった。
対して父は、ふぅーっ、と大きな吐息を漏らして答えた。
『……夏貴は完璧すぎる』
『えっ……』
『無意識に周りを気にして、周りから好かれる最善の選択肢を取る……あの子は、そういう風に育ってしまった』
『……夏貴くんが?』
千冬さんの驚く声。
僕は父の評価を冷静に受け止める。
思い当たる節はいくつもあった──父にバレていても、別に不思議ではない。
ただ疑問は残る。
僕が父の評した通りの人間だったとして、それがなぜ、千冬さんを不幸にするという結論に繋がるのか。
その答えを、父は悔やむように告げる。
『最初は無邪気な子でした。周りの目など気にせずに、友達やクラスを巻き込んで、色んなことをするような子だった』
「…………」
『夏子はどうか知らないが、少なくとも私は好きだった。あの頃の、自分らしく生きていた息子が輝いて見えた。親バカだとは思いますがね』
父が笑い、『しかし』と続ける。
『中学校に入って1ヶ月が経った頃ですか。夏貴は急に容姿を気にし始めて、それまでやらなかった勉強を熱心にこなすようになった。先生の言うこともきちんと聞くようになって、問題を起こすこともなくなった』
『……それは、良いことなのではないですか?』
『世間一般としてはそうでしょう。しかし私は赤ん坊の頃からずっと、夏貴を見守ってきた……』
そして一呼吸置くと、千冬さんに答えた。
『……夏貴は無理をしています。本当の自分を抑え込んで我慢して、周りが望む姿に変えている』
「…………」
『現に夏貴は以前と比べて、自発的な行動をしなくなってしまった。行動するかしないかの基準を、周囲の反応に置くようになった』
『……そんなことは』
『あるんです。それが今の夏貴なんです。あなたと一緒にいるときは紳士的で、とてもそうは見えないでしょうが。1人の親として見れば、夏貴はそういう人間なんです』
それを決めつけだと反論できれば、どれほど良かったか。
父の言葉をすんなりと受け入れ、心の中で苦い顔をしている自分がいた。
全く間違いではないのだ。
父が観察した通り、僕は色々なものを抑えて生活している。
それが普通だからと、疑わずに。
僕は何となく、父の語りの結末を悟った。
その予測はかねがね当たっていた。
『だからこそ、いつか貴女を傷つける。息子の心が疲れ果てて、誰にも打ち明けられずに傷だらけになったとき、最初に傷つけられるのは貴女だ』
「……っ!」
『私はそんな光景を見たくない。だから別れて欲しいのです。
夏貴は最悪、誰にも本心を打ち明けないまま育っても、1人で生きていくことが出来ます。貴女も同じです。別に夏貴でなくとも、この世には良い男が沢山いる。何も茨の道を通る必要はないんです』
『……お父さん』
『その上でお聞きします。越藤千冬さん』
父は試すように問いかける。
『貴女は、こんな面倒な話を聞いてもなお、夏貴と付き合いたいと思いますか』
──沈黙が始まった。
凝縮されたかのように、1分1秒が長く感じる。
ドア越しでも漂ってくるほどの息苦しさだった。
中で答えを考えているであろう千冬さんの、途轍もないプレッシャーは想像に難くない。
どう答えれば良いのだろう。
ただ何となく、曲がりなりにも父と1つ屋根の下で暮らしてきた息子としては──単に「付き合いたい」というだけでは、ダメな気がする。
父がそんな、陳腐にも思える答えを欲しているとは、到底思えなかった。
答えは返ってこない。
ドアの向こうから、誰の声も聞こえず。
耳には、自分の生唾を飲む音だけが聞こえる。
──もういいですよ、千冬さん。
──適当に答えて、切り上げてください。
思わずそんな考えがよぎった。
別に父が別れさせようとしても、僕と千冬さんはレンタルによって繋がっている。
そもそも本当のお付き合いではないのだ──真剣に返さなくても、まだ傷は浅く済む。
だから早く逃げて欲しかった。
しかし──。
『…………私は』
千冬さんは、長い沈黙を破って。
父の圧力に負けないぐらいの、堂々とした声で告げた。
『夏貴くんが、好きです』
「っ……!」
『何があっても。どんなときでも。常に周りを見渡して行動できる夏貴くんが好きです』
『……千冬ちゃん』
母の心配そうな声が聞こえる。
千冬さんは今、どんな表情をしているのだろう?
『カッコつけてるときも、気配りしてくれるときも、時折笑いかけてくれるときも、私と一緒に照れてくれるときも、全部。
その全てがカッコよくて、可愛くて……たまに羨ましくなって、愛おしくなる』
「…………!」
『夏貴くんに傷つけられることは、一緒にいればいるほど、確かに増えるかもしれませんが……』
心なしか声を震わせて、はっきりと言った。
『……それでも。それでも一緒にいたいと思える、私にとって初めての人なんです』
再びの沈黙。
息苦しさこそあれど、その中にどこか穏やかな空気が流れ始める。
僕はただ、千冬さんの言葉を受け止めていた。
同じく初めてだったのだ──こんなにも素直に、直球で思いの丈をぶつけられたのは。
ふと、目に温かいものを覚える。
手で触ってみると、それは雫のようだった。
頰から輪郭を伝うのは、ほんの数粒だけ──だがその数粒の感覚が、妙にこそばゆく、新鮮に思えてしまう。
僕は何年の間、この感覚から遠ざかってしまっていたのだろう?
堰き止められていた感情の渦が、とめどなく溢れてきて、収まりがつかなくなる。
そこに追い打ちをかけるように、千冬さんはさらに訴えた。
『……だから夏貴くんと別れろなんて、そんな悲しいこと言わないでください』
『……千冬さん。貴女は……』
『たとえ茨の道だったとしても、私を……夏貴くんと一緒にいさせてください』
──演技なのかな、なんて思う。
だって所詮、レンタルの恋人なのだ。
たかが一顧客の父親に、映画のように愛を叫ぶ必要なんて──考えてみればどこにもない。
演技にしては、熱が入りすぎている。
信じたい。信じられない。
相反する感情と思考がせめぎ合って、パニックになって、やがて分からなくなる。
揺らぐ心と連動して、ポロポロと情けなくこぼれ落ちる雫。
それが涙だと、僕は素直に認められなかった。
堪らず廊下を駆ける。
静寂の中で、足音が大きく鳴り響く。
きっとリビングにいる全員に、盗み聞かれたと気づかれただろうが。
僕は玄関から外へ飛び出して、ガタン! と乱暴にドアを閉めた。
「っ……」
そのままコンビニのほうへと走る。
振り向かず、逃げるように離れていく。
顔は思い切り伏せる。それは当たり前のことだった。
涙でグシャグシャに滲み、不格好に歪んでいる顔なんて、みっともなくて情けなさすぎる。
必死に拭った。
溢れ出る大粒のそれを、何度も何度も、がむしゃらに。
──でも、ダメだなぁ。
途中、思わず笑ってしまう。
本当の自分とは、こんなにも感情の波に脆い人間だったのかと、恥ずかしくなってくる。
千冬さんには、今の僕の姿を見抜かれていたのかな──なんて。
本当に情けなく思いながら。
父から頼まれたお使いを、僕は生まれて初めて、果たせずに終わりそうだった。
ナツフユ〜限りなく精巧な赤い糸〜 生々恋歌 @fly-shoot
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