暗雲
リビングに通された僕たちは、並んで座る両親と対面するように席に着いた。
当然、父の前には僕が。
千冬さんは母と向かい合わせる。
ただでさえ父は相手を緊張させるのだ──少しでも斜めに遠ざけて、千冬さんにリラックスしてもらったほうがいい。
僕なりのささやかな配慮だった。
しかし父は、そんな配慮すら無に帰すほどの重々しい雰囲気で、千冬さんに静かに尋ねる。
「ご趣味は?」
──お見合いかっ!
思わず心の中でツッコんでしまった。
色々話をしたいなかで、まず初めに聞くのがそれ?
訳が分からず、戸惑っていると、
「……そうですね」
千冬さんは悩み込み、困ったように笑ってしまっていた。
無理もない。何の前置きもなく「趣味は?」と聞かれたら、誰だって返答に窮するだろう。
しかし千冬さんは顔を上げ、冷静に答えた。
「ピアノと舞踊は習っていたので、人並みには出来るかもしれません。難しい技術は、少し自信がないですけど」
「……なるほど」
父が頷くと、また次の質問が飛ぶ。
「夏貴の気に入ったところは?」
「優しくて明るいところです。私のことをよく気遣ってくれるので、すごく感謝してます」
「では見てくれでなく、中身で選んだと」
「もちろんです。どれだけ顔が良くても、心が冷たい人は好きになれませんから」
「……なるほど」
──まるで尋問だ。
普通、息子が初めて彼女を連れ込んだときって、もう少し和気藹々とするものじゃないのか。
一体、父は何を考えてるんだ。
まるで頭の中が分からず、訝しげに睨む。
「おい夏子。お前から何か聞きたいことはないのか」
すると父は、隣の母を向いて尋ねた。
ちょうどいい、このまま母に場を明るくしてもらえれば──と思ったのもつかの間。
すぐにかぶりを振って、父にニコリと微笑んだ。
そして、穏やかな口調とともに告げる。
「いいえ。何も」
「本当か?」
「えぇ。あなたの聞きたいようにすればいいわ。私は一切止めないから」
「……すまない」
「いいえ。大丈夫です」
全然大丈夫じゃない、むしろ逆だ。
父が主導権を握った今の状況のほうが、一番恐ろしすぎる。
この張り詰めた空気を感じてないのか。
涼しい顔をして麦茶を飲む母を、じっと見つめると、
「……ふふっ」
母は湯飲みに視線を落としたまま、どこか懐かしそうな目をして笑った。
ダメだ、母は全くアテにならない。
落胆する僕を置いて、父は千冬さんへの謎の尋問を続ける。
「夏貴とは現在、どの辺りまで進みましたか」
「進んだというのは、彼との関係のことですか?」
「もちろん」
「えっと……手を繋ぎました。それと、この前のデートでは贈り物もいただきました」
「贈り物?」
「はい。私の大好きなキャラクターが付いたネックレスです。プレゼントというのを、私、初めてもらったので……すごく嬉しかったです」
「ふむ」
父は小さく頷く。
「なるほど。健全なお付き合いをされてるようだ。少なくとも淫らなことは、まだしていないらしい」
「みっ……!」
「ふふっ、はい。そこまでは至っていません」
──当たり前だろ!
とうとう心の中で、父に対する憤慨が爆発した。
というか、年頃の女子を目の前にして、よくそんな卑猥な言葉を使えるものだ。
本当にどうかしている。
会話に割って入ろうか、とも思ったが。
「……そうですか」
なぜか父は落胆するように、そこそこのため息を吐いた。
嘆きたいのはこっちのほうだ──横目でちらっと千冬さんを見る。
音を立てずに麦茶を飲み、丁寧に客人用のコップを置く。
その姿勢に、まるで動揺や驚きは感じられない。
肝が座るとはこのことか。
僕は思わず感嘆しながら、父の無礼について申し訳なく思う。
ふと、テーブルに座る全員の飲み物を確認した。
父は一切手をつけていないから、湯飲み一杯に溜まっているが。
僕と母、千冬さんの残りが少ないことに気づく。
場の空気を変える意味も込めて、僕はさっと立ち上がった。
そして父の視線を誘い、告げる。
「麦茶。そろそろ淹れるよ」
「あぁ、そうねぇ。夏貴は座ってて……」
「いや。俺が淹れるから、うん」
「……そう」
「ありがとうございます、夏貴くん」
「いえいえ」
数十分ぶりに見た千冬さんの笑顔が、とても眩い。荒んだ心が癒されるようだ。
冷蔵庫のほうに向かい、扉を開ける。
そして麦茶の入っている容器を確認すると、
「……うわぁ」
中身がほとんど残っていなかった。
全部注いでも恐らく1人分で、とても足りるとは思えない。
スペアの容器も、なぜか冷蔵庫になかった。
普段は麦茶を切らさないように、もう1個用意されてるはずなのだが。
奇妙だと思いながら、母にこの旨を伝える。
「母さん。麦茶ないよ」
「あら本当に? おかしいわねぇ」
「どうする? 俺、ちょっと買いに行こうか?」
「えーでも、せっかく彼女さんがいるのに、置いていくのは失礼よぉ。私が買いに行ってくるから、夏貴はここで待ってて──」
その時、リビングから父が言った。
「──夏貴。お前が行きなさい」
母が驚いてばっと振り返る。
僕はキッチン越しに、父と目を合わせる。
何とも物静かな瞳だった──まるで磨られた墨のように、滑らかな光を含んでいた。
それが何の感情を意味するのか、まるで分からなかったが。
断る理由もなく、まして断れる雰囲気でもない。
目を逸らし、千冬さんのほうを向いた。
小さな背中を見せたまま、後ろを振り返ることなく佇んでいる。
どんな表情をしているのか、これまた何を思っているのか、悟ることも出来ない。
このまま1人で外に出ていいものか、つい不安になる──が。
自分がここにいても、きっと千冬さんを助けてあげられない。
悲しいが、それが現実だ。
ならば信じよう。千冬さんを。
だって千冬さんは、仮にも僕の彼女なのだから。
腹を括り、僕は言った。
「……分かった。でも父さん、あまり千冬さんに変な質問はしないでよ」
「そんな事はしていない」
「……そう」
開けっ放しだった冷蔵庫のドアを閉める。
そして父の視線を浴びながら、ゆっくりとリビングから出た。
バタン、とドアを閉める。
財布はポケットに入れたままだから、さっさと買い物を済ませようとした──が。
「……うっ」
お腹から嫌な音が鳴る。
聞き馴染みのあるそれは、まさしく下痢のサインだった。
思わず内股になり、お腹を押さえる。
一心不乱にトイレに駆け込み、ズボンを下ろして便座に腰掛ける。
その直後、大量のおならとともに、ドロドロの排泄物が流れ出た。
ガクリとうなだれながら、しきりにお腹の真ん中辺りをさする。
「うぅ……」
早く行かなければならないのに、下痢とは。
どうやら不運の波まで来ているらしい。
さっさと出し切って、立ち上がりたいのはやまやまだが──よほど溜まっていたのだろう。
まるで残便感を拭えなかった。
「……はぁ……」
排泄しながら考える。
何だかんだ苛立ちはしたが、それでもやはり、父は無駄なことをしない人だ。
つまりあの謎質問にも、必ず何か意図がある。
それに僕が気づいていないだけ、かもしれない。
もっとも、何も考えてない場合も考えられるが。
普段は自分から話しかけない父が、積極的に千冬さんへ質問しているのだ。
だから、考えなしはありえないだろう──と。
1つの可能性を捨て去ったとともに、ようやく残便感もマシになってきた。
花柄のトイレットペーパーで尻を拭き、排泄物もろとも水で流す。
そして、手をしっかり洗うと廊下に出た。
そのまま麦茶を買いに行こうと、玄関の一歩手前まで歩いたところで、
「……千冬さん」
後ろを振り向いた。
あの空間に1人残した彼女に、一抹の不安を覚える。
トイレに籠って、大体数分ほどかかってしまったが──リビングの中で今、どんな状況に置かれているのか。
もしかして、千冬さんのプライベートにまで踏み込まれていないだろうか、と。
そう思ったときには、既に玄関から離れていた。
そっとリビングのドアに近づく。
そして聞き耳を立て、中の様子を伺う。
『──夏貴と別れてくれ。それがきっと、君のためだ』
最初に聞こえたのは、父のそんな言葉だった。
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