楽し旅行
マツダシバコ
楽し旅行
明日から夏休み恒例の親戚旅行だった。
ノブは気が進まなかった。
「早く荷造りを済ませてしまいなさい」
ママにそう言われても、彼女の手は進まない。
妹のマリがノブをじっと見ている。
妹は監視役だ。
ママに何でもすぐに言いつける。
待ち合わせ場所にはすでに親戚たちが集まっていた。
子ども7人。大人11人。総勢18 人。
アヒルの団体ほどに騒がしい。
「どうしたの?その格好」
「知らないわ」
叔母が話しかけると、ママは不貞腐れたようにそっぽを向いた。
ノブは、夏だというのに長ズボンを履いていた。
それに長靴も。
Tシャツの上にはナイロン製のスポーツジャンパーを着ていた。
もちろん、長袖の。しかもファスナーを首元まで引き上げて。ご丁寧にフードまでかぶって、巾着袋のように紐をしっかりと結んでいた。
当然、ノブは子供たちのからかいの餌食になった。
「何だ、その格好」
「バカじゃないか」
「へんなのー」
ノブはあえて口を開かず、彼らの様子を大きすぎるサングラス越しに眺めていた。
どうせ、何を言ったってバカにされるのだ。
ノブは蚊が怖いのだった。
それで、蚊に刺されないためにそんな格好をしているのだ。
人生のうちには、読まなければよかったと後悔する本に巡り合うものだ。
旅行の前日、彼女はそんな一冊に出会ってしまったのだ。
それは本棚のいちばん下の隅にあった古臭い本だった。
タイトルには「蚊が運んでくるおそろしい病気」とあった。
マラリア、デング熱、西ナイル熱。
本にはさまざまな恐ろしい病気の紹介とともに、第一次世界大戦の頃に大流行したマラリアの患者を収容した病室の写真が載っていた。
中でもノブの心をとらえたのが「日本脳炎」という病名だった。
彼女は日本人だったし、子どもが感染しやすいというのにも当てはまった。
何より彼女は、脳が冒されてこれ以上頭が悪くなっては困るのだ。
彼女は震え上がった。
家までの帰り道も、お風呂に入っている時も、夕食の時間も、楽しみにしていた旅行の準備をしている時も、蚊の存在はノブの頭からひとときも離れなかった。
そして今も蚊の存在は、恐怖心とともに彼女の頭の中を飛び回っている。
アヒルの団体は、目的地行きの特急列車に乗り込んだ。
何しろ18人ともなれば、何かするたび大騒ぎだ。
列車に乗り込むと、まずは子どもたちにアイスクリームかレモンスカッシュが買い与えられる。
そうすると子どもたちはおとなしくなる。
「お前、どうしてそんな変な格好をしてるんだよー?」
向かいに座ったレンを無視して、ノブはアイスクリームのさじをしゃぶっている。
妹のマリには、騙くらかして酸っぱいレモンスカッシュを注文するよう仕向けてやった。
彼女は妹の酸っぱそうな顔つきを見るたびに優越感を覚える。
列車の中は冷房が効いていて、蚊が出現する可能性も低いし快適だった。
向かいの席からレンがつま先を伸ばして、ノブのひざを突っついてくる。
「なあ」レンはにやにやしている。
ノブはレンの足を払いのけて通路に身を乗り出すと、隣のボックス席を覗き込んだ。
密かに憧れている年上のケンが遠い目をして窓の外を眺めている。
ケンの両親は旅行に同行していない。
ケンの父親は弁護士で母は皮膚科の医師だった。
両親はエリートで二人とも忙しいのだ。
そしてお互い不倫にも忙しいのだ。
ノブはそっと、大人びたケンを見つめる。
今日は一段とケンの存在が遠く見える。
ノブは変な格好をしている自分が悲しくなる。
子どもたちはどこに行くにも軍隊のようにまとまって歩く。
ズンチャ、ズンチャ、ズンチャ。
手間がかからないように親たちからそう躾けられているのだ。
ズンチャ、ズンチャ、ズンチャ。
列車から降りた彼らがまず目指すのは蕎麦屋だ。
彼らは毎年、判で押したように同じ日程をこなす。
ノブは蕎麦屋で、食べたくもないもり蕎麦を食べる。
2年前から組み込まれたルーティンだ。
たまたま彼女の気が向いて注文したところを、叔父が「通だ」と褒めたのだ。
もり蕎麦といえば、そば粉を水で溶いて、捏ねて、伸ばして、切っただけの最もシンプルでつまらない食べ物だ。
けれどそれ以来、彼女はそれと決まっている。
それにも増して苦痛だったのは、叔父や叔母の攻撃だった。
「食べる時にはサングラスを外しなさい」
「手袋を脱ぎなさい」
「フードを取りなさい」
ノブは聞こえないフリをして、おいしくもない蕎麦をすする。
そば屋の建物は古くてカビ臭くて、いかにも蚊が好みそうな佇まいなのだ。
彼女は足元のブタの形をした蚊取り線香立てを足で引き寄せる。
「プ~ン」と蚊の羽音が聞こえてくる。
ノブはハッとして音のする方へ顔を向ける。
今度は反対側から羽音が聞こえてくる。
彼女は慌ててそちらへ顔を向ける。
すでに頭の中にはわんわん大量の蚊が発生している。
ノブはまるでスプリンクラーのように首を回して、くわえた蕎麦の先からつゆを撒き散らしている。
蕎麦つゆをひっかけられた叔母が怒り出す。
「サヨコさん、あなたっていったいどんな教育してるの?」
ママは泣きそうな顔になる。
昼食の後には眠気が襲ってくる。
でも、眠るわけにはいかない。
ノブは砂漠で水を求めてさまよう旅人のように、朦朧のうちに足を運ぶ。
うっかり夢の中に足を踏み入れると、巨大な蚊に追いかけられる。
慌てて首を振って目を覚ますと「プ~ン」と羽音の幻聴が聞こえてくる。
どうかなりそうだ。
気づくとノブは、窓ガラスに顔を押し付けてロープウェイに乗っている。
後続のロープウェイには、ケンとスミレとカズがいる。
ノブは窓ガラスに鼻の頭と唇を押し付けて、彼らに変な顔をしてみせる。
向こうのロープウェイからも変な顔が返ってくる。
毎年、ロープウェイに乗るときは変な顔をし合うのが恒例なのだ。
しかし、今年のノブには悪意があった。
彼女はケンとスミレが同じ箱に乗っているのが気にくわないのだ。
それに年下のレンや妹と一緒の箱に入れられたことも気に食わない。
「ママー。ノブが窓に鼻クソをなすりつけたー」
妹のマリがママに言いつける。
ママは窓辺で頬杖をついて、聞こえないフリをしている。
ノブはすでに夢と現実の区別がついていない。
夢の中でも現実でも、蚊の襲撃からは免れられない。
いつの間にかノブは手に、サワガニがわしゃわしゃ入ったビニール袋を持っている。
彼女はサワガニ取りの名人だ。
眠っていたってサワガニを捕まえるなんてワケのないことだ。
ノブは蚊の羽音の幻聴に襲われて、サワガニの入ったビニール袋を振り回す。
その袋がスミレの顔に当たる。
スミレが泣き出す。
それに合わせてアブラゼミが大合唱を始める。
頭の中では蚊がわんわん唸っている。
まあ今年が特別ということではない。
毎年なんやかんやで大騒ぎになる。
ズンチャ、ズンチャ、ズンチャ。
吊り橋から下を覗いたとき、このまま飛び降りてもう死んでしまおうか、という思いがノブの頭をよぎった。
つらいというより、もう生きた心地がしないのだ。
橋の上では、レンが無邪気に吊り橋を揺らして皆んなを怖がらせている。
バカな男、とノブは思う。
あんたの母さんは不倫してるっていうのに。
彼女は意味はわからないが、不倫という言葉が気に入っている。
この言葉を使って悪口を言うと、すっきりするのだ。
子どもたちは皆で手すりのロープの間から顔を突き出して、唾を垂らしている。
誰がいちばん長く唾を垂らすことができるかの競技だ。
夢うつつでうまい具合に口元がゆるんだノブがだんとつだったが、そんな競技に優勝しても少しもうれしくない。
長い1日は終わった。
ノブは風呂にも入らず、夕飯もそこそこにふとんに入った。
けれど、いざ寝る段になると目が冴えた。
例の恐ろしい妄想が襲ってきたのだ。
彼女は何度も寝返りを打った。
その度にビニール製のジャンパーはガザガザと耳障りな音を立てた。
翌朝は最悪な気分だった。
ノブの目の下には墨で書いたようなクマができていた。
でも、それは彼女だけじゃない。一同みんな寝不足だった。
それはノブが夜中に電気を点けたり消したり、部屋の中を駆けずり回ったせいなのだ。
けれど、毎年恒例の行事をこなすために、彼らは河原へピクニックに出かけた。
大人たちは川石で流れをせき止めてスイカとビールを冷やした。
子どもたちは浅瀬でトンボを捕まえて、トンボずもうをした。
捕まえたトンボを向かい合せにけしかけて、どちらかの頭が落ちるまで戦わせるのだ。
ノブの捕まえたオニヤンマはめっぽう強かった。
彼女はこんなことばかり得意だ。
ノブの前には挑戦者たちが行列した。
ケン、サトシ、スミレ、カズ、マリ、レン。
スミレ、レン、ケン、カズ、サトシ、レン。
スミレ、ケン、スミレ、スミレ、、、。
というように、最後は女同士のサシの勝負となった。
スミレは自分のトンボをノブの持っているトンボに押し付けた。
ポトリと目玉が落ちた。
スミレの勝ちだった。
ノブの背中のあせもが痒さのマックスを極めていた。
彼女の中で抑えようのない感情が爆発し、ノブは手に持った目玉のないトンボを猛然とスミレの鼻に押し付けた。
スミレは尻餅をついて泣き出した。
スミレのスカートから覗いた花柄のパンツを睨みつけながら、ノブは荒く鼻息を吐き出した。
不穏を嗅ぎつけた叔母たちが駆け寄ってきた。
ママの所有権のほとんどは妹のマリにあったが、どうしても甘えたいとき、ノブはママの近くに寄っていって寝たふりをした。
ママはお弁当が並んだレジャーシートの上で、ひざを横に流して座っていた。
ノブはママの近くに這っていって、寝たふりをした。
彼女は非常に深刻な孤独を抱えていたのだ。
ママの手が伸びてきて、フードの隙間からノブの髪の毛をそっと指先で撫でた。
ママはノブのことが嫌いではなかったが、どちらかというと眠っているノブの方が好きだった。
そのことをノブもよくわかっていた。
ノブはママに気づかれないようにそっと薄目を開ける。
しかし、その目は一瞬で見開かれた。
ママの頬に蚊がとまっている。
彼女は起き上がるが早いか、ママのほっぺたを平手打ちした。
ママの目が見開かれる。
そして、とうとうママは子供のように泣き出してしまった。
ノブは落ち込んでいた。
それで、とぼとぼとパパのところへ行った。
パパは流れの速い上流の岩の上に立って釣りをしていた。
ノブは川石をひっくり返して、釣りエサの川虫を捕まえてはパパに渡した。
しばし、男同士の対話のような無言のやり取りが続いた。
ノブの本当の名前はノブコだったが、マリやスミレみたいなかわいい名前じゃなくて、どうして自分だけこんな変な名前なんだろうと、ノブはたまに思う。
そのことをいつかパパに聞いてみたいのに、ノブはまだ聞けずにいる。
「なあ、ノブ」パパが口を開いた。
「ん?」ノブは振り返る。
「もう少し、ママにやさしくしてあげてくれないかな」
再び、強烈な孤独と悲しみと憤慨が彼女を襲った。
自分がどれほどママのことを思っているか、誰もわかっていないのだ。
ノブは落胆のあまり、そのまま川に入水した。
冷たい水が彼女の足をさらい、意識が遠のいていった。
気付くとノブは、暗い旅館のふとんの上で寝かされていた。
彼女は慌てて飛び起きると、体中を点検した。
蚊には刺されていない。彼女はほっとした。
彼女は浴衣に着替えさせられていた。
でも、その上に着たスポーツジャンパーはきちんと首元までファスナーが引き上げられていた。
彼女はずり落ちたサングラスを外して、辺りを見回した。
蚊取り線香の煙が立ち込める部屋の中で、皆が爆撃を受けたように手足を好き勝手な方向に投げ出して、寝息を立てていた。
窓から青白い薄明かりが差し込んで、間もなく夜が開けようという頃だった。
ノブはパパの姿がないことに気付き、そっと部屋から抜け出した。
パパは旅館の入り口の脇にある池の前に立っていた。
「パパ」ノブはパパに声をかけた。
パパは池の水面を見つめていた。
「ハヤは動きが俊敏で、獰猛なんだ」
パパはつぶやくように言った。
池には赤い金魚が腹を見せて浮かんでいた。
「パパ、またやっちゃったね」
パパはしょんぼりと頷いた。
パパは毎年、釣ってきた川魚を旅館の池に放しては金魚を殺して、旅館の主人に怒られるのだった。
「パパ、遊びに行こう」
ノブはジャンパーを脱ぐと、パパと手を繋いだ。
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