故に少女は、然らしむべく屍になる

古典的なキョンシーホラーと正統派サイバーパンク。
そこに極めて濃密に凝縮された道(タオ)のエッセンスが滴る。

序盤、父親に娘の死体を活用する目的を明かす語り口に、理想や崇高さが微塵もなく、ただ即物的で実利的なやりとりの末、滑稽になるほど容易く人が死んでいく。その有様は、正に無数の命を使い潰しながら積み重ねてきた彼女の死生観が反映されたシニカルなリアリズムだ。

物質的な死には本来尊厳も畏怖もなく、故に新鮮な肢は素材となる。閉居して生きながら死の運命を待つ住民達がネクロマンサーにはマテリアルに見える。ならば生死の線引きはどこにあるのか。きっと彼女はこう答えてはぐらかすのだろう、「未ダ生ヲ知ラズ――」と。

しかし曰く「君子、怪力乱神を語らず」とした彼の者も、遂に魂魄は否定できなかった。実存を伴わない生死に関してはその秘技を後世に投げたことで、自らのロジックを完成させたのだ。この関係は、丁度作中におけるキョンシー達の命運と似ている。重要なのは生きているか死んでいるかではない。その四肢に封じ込められていた物語なのだ。

人の命とは物語である。と、作中では語られる。
史記を描いた彼の者も、宮刑に処されて命を繋ぐ役割を奪われたからこそあの膨大な量のテキストを後世に残せた。
故に命と物語は等価である。
故に叶わぬ恋を抱き、それにも構わず思いに殉ずると決めた少女は、既にその時点で物語《命》に決着がついていた。

故に少女は、然らしむべく屍になるのだ。



(少女、鬼神に事えんを問う。
 師姉曰わく、未だ人に事うること能わず、焉んぞ能く鬼に事えん。
 また敢えて屍を問へば、曰く肢を知らず、焉んぞ生を知らん。)

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