その雨のすべて
ハナさんが亡くなったのは、一週間前のことだった。
翌日には全校集会が開かれ、僕は蒸し暑い体育館で彼女の訃報を聞いた。
伝え聞いた噂によると、自宅近くのマンションからの飛び降り自殺。理由は公にはされていない。
不思議と驚きはなかった。
この世界は、ハナさんにとってあまりに生きづらすぎる。そんなこと、本当は三ヶ月前からとっくにわかっていたのだ。
*
視界の隅の時刻表示が18:00を示した。
窓枠に設置された降車ボタンを押すと、ハナさんは不思議そうに僕の顔を見る。
「にゃーはどこに行くの?」
「実は特に決めてないんですよ」
わざとらしい苦笑。
ハナさんの返答を待たず、僕は一度シノグラスを外した。途端に車内が静寂に包まれ、乗客の大半が死人であったことに気づく。僕たちの住む世界はレンズ一枚を隔てて重なり合っているけれど、その繋がりはこんなにも脆く、軽い。
頭上のエアコンから吹き付ける冷風がやけに冷たく感じられ、僕は指先で強く目頭を揉んだ。
聞き慣れないバス停のアナウンスが流れ、バスが停まる。
グラスを掛け直し、僕たちはバスを降りた。
「きっと、最初はね、ボタンの掛け違いみたいなものだったんだよ」
見知らぬ住宅街を歩く。
ひび割れたアスファルト、雑草の目立つ駐車場、看板の割れたクリーニング屋。ともすれば、それは這い寄る死に侵されつつある街の姿だ。
「ハナはハナのやりたいようにしかできないから。みんなが当たり前に思って、当たり前にできること、すごく難しいんだ」
わかるでしょ、と小さくつけ加えてからハナさんは続ける。
「みんな、生きるのが上手だよね」
何を伝えればいいのかわからず、僕は黙って歩を進めた。住宅街を抜けるとそこは広い公園で、遊歩道と芝生の向こうには壁のようにせり立つ堤防が見える。
もう死んでしまった彼女は、みんなよりも生きることが下手だったのだろうか。きっと違うと僕は思う。
「……生きるのが上手い人なんて、きっといなかったんだ」
だってそうだろう。
誰もが上手に生きられるなら、ボタンの掛け違いなんて起きなかった。
誰もが上手に生きられるなら、誰かが孤立することなんてなかった。
誰もが上手に生きられるなら、誰かが食い物にされることだってなかった。
誰もが上手に生きられるなら、
「きっと、ハナさんが死ぬことなんてなかった」
ハナさんが雨と呼んだものの正体を僕は知らない。僕は彼女がどういう生活を送っていたのかを知らないし、その中にどれほどの苦しみが潜んでいたのかも知らない。向けられた視線の冷たさを、投げつけられたゴミの数を、隠された上履きの行方を、騙された嘘の意図を、無視された言葉の意味を、破られた教科書の頁を、失った友達の名前を、流された根も葉もない噂を。
ハナさんが命を支払ってでも逃げ出したかった、その雨の全てを僕は知らない。
「……ごめんね」
困ったような顔をして、彼女は笑う。
「にゃーとは楽しい話だけしてたかったんだ」
その弱々しい表情を僕に一度も見せなかった。助けを求めることも、弱さを嘆くこともしなかった。それがハナさんの何よりの強さだと僕は思う。
堤防の上へ伸びる長い階段を上がる。湿り気を帯びた風が吹き、木々の揺れる音がする。太陽が沈み始め、僕はまた首筋に少しだけ寒さを感じた。
ハナさんは素直に生きていただけだ。それだけのことが、時に誰からも許されなくなる。僕たちが押し込まれた狭い世界はきっとそういう不条理で満たされていて、突然降り出す雨に差す傘もないなら、息を潜めてやり過ごすしかない。
そういう諦めを抱え込むには、きっと彼女は真っ直ぐすぎた。
雨ざらしのまま歩き続けて、取り返しがつかないほどに濡れそぼって、もうどうしようもなくなって、それでもなお続く終わりの見えない世界に目がくらみ、倒れた先がこのレンズの向こう側だったのなら。
ハナさんの死がどうか穏やかであればいいと、そんな当たり障りのない、けれど本心からの切実な祈りを僕は抱く。
堤防の階段を上り切ると、目の前に現れたのは巨大なダム湖だった。微かに見える対岸の木々の上で雲間から現れた西日が輝いていて、その光を反射するきらびやかな湖上を水鳥がゆっくりと泳いでいる。
こんな場所があることを、今の今まで僕は知らなかった。
「じゃあ、楽しい話をしましょう」
湖を一望できるベンチに腰掛け、僕は言う。
ハナさんは両足を投げ出すようにしてベンチの半分を占領し、隣にいる僕の顔を覗き込むと悪戯を思いついた子供のようにニヤリと笑った。
「恋バナ! 恋バナしようよ!」
いつものようにはしゃぐその声に、僕は少しだけ目を細める。
この無邪気で歪な美しい人が、これからはただ穏やかに死んでいけますように。
ハナさんのこれからの人生に、どうかもう雨が降らないようにと、僕はそう強く願った。
雨のすべて 水瀬 @halcana
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