最終話 好きになってよかった
きのうが痛くて。きのうが苦しくて。
三日前。十日前。一か月前になっても、『きのう』はきのうのまま心に存在しつづけた。
それでも。
彼でよかった。
はじめての恋人も。
はじめての失恋も。
彼でよかった。
彼を好きになってよかった。
それは、ほんの少しの強がりと素直な気持ち。
▽▲▽▲▽▲
年季のはいった重厚な木枠ドアをひいた。カランカランとカウベルが鳴る。
「いら……」
高校時代通いつめた『喫茶ミモリ』のカウンターの中。黒いエプロン姿の
「あ――
あの、失恋が『きのう』になった日から、十年以上の時が流れた。
「
「え」
「じゃーん」
芸能人よろしく愛は顔の横で手の甲を忍に向けてみせた。その薬指には結婚指輪がはまっている。
「結婚、したんだ」
「うん。っていうか、相変わらず反応うっすいなぁー」
旦那は忍みたいにスマートじゃないし、背も高くないし、イケメンでもないし、ぜんぜん愛の好みじゃないのだけど。まっすぐに愛を見てくれる人だ。となりにならんで、おなじ方向に進める人だ。
「ごめん。ちょっと驚いて。……おめでとう」
「ありがと。コーヒー、飲ませてくれる?」
「もちろん」
旦那の海外赴任がきまり、愛も来月には渡米する。
準備にバタバタとかけずりまわる中、ふ――っと思い出す瞬間があった。
あの痛くて苦しくて気が狂いそうだった『きのう』がいったいいつ過去になったのか。
わからないけれど、『思い出す』ということは、ふだんは忘れているということだ。
いつのまにか、それくらい遠くなっていた。
「そっちはどうなの?」
「なにが?」
「なにって、
「ああ……べつに、どうもなってないよ」
「ええ? うそでしょ? いい加減くっついてると思ってたのに」
コリコリとハンドミルでコーヒー豆を挽きながら苦笑している忍の顔は、どこか痛みをこらえているように見えた。こちらはこちらでいろいろあるのかもしれない。
「来月、アメリカに行くんだ。旦那の転勤で」
「……そうか。どれくらい?」
「予定は三年だけど、のびる可能性もあるみたい」
ぽつぽつと、ぎこちない会話がぎこちなくかわされて。けれど、不思議と気まずさは感じない。
カウンターの中、コーヒーの
「よかった」
「え?」
「愛は今、しあわせなんだな」
「そう見える?」
「ああ。見える」
「そっか。うん……そうだね。しあわせだよ」
「よかった。ほんとうに」
真っ白なカップ。淹れたてのコーヒーがそっと愛のまえに置かれた。
「ありがとう」
忍と出会って好きになって。
別れて失恋して。
そして、今の旦那に出会った。
ぜんぶ。ぜんぶつながって今がある。
出会えてよかった。
好きになってよかった。
今ならほんとうに、心からそう思える。
コーヒーの味だって、あのころよりは多少わかるようになった。
「……おいしい」
愛の口からこぼれた言葉に、忍が静かにほほ笑んだ。
(おわり)
今日はあしたのきのう 野森ちえこ @nono_chie
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